【レポート】米中接近から考える2国間の融和

米中接近から考える、二国間の緩和

はじめに

 1972年、アメリカを代表とする資本主義陣営の国々と、ソ連に代表される共産主義陣営の国々による冷戦が繰り広げられていた中、「20世紀最大の外交的意外性」とされる出来事が発生した。ニクソン訪中である。当時のアメリカの大統領が、共産主義陣営の中国を出し抜けに訪れたことは世界に大きな衝撃を与えた。そして、この出来事を契機とし、7年後の1979年には正式に米中間の国交正常化が発表されることとなった。国交を断絶するほどの仲であったアメリカと中国が、なぜ関係を融和することとなったのであろうか。本稿では、米中接近のプロセスを分析し、二国間における関係融和がどのような場合にどのような過程で発生するのか、という点を明らかにする。

アメリカから見た米中接近

第1節 ソ連との冷戦

 1953年にソ連指導者のスターリンが死去すると、ソ連ではスターリン批判が高まる。スターリンの後継であるフルシチョフは、スターリンと異なる政治を志向し、アメリカとの平和的共存を目指した。しかし、1960年代にアメリカとソ連の関係は3回も軍事衝突寸前となるほどに悪化した。1回目は1961年8月のベルリンをめぐる危機、2回目は1962年10月のキューバにソ連のミサイルが持ち込まれたことをめぐる危機、そして3回目は1967年6月に起きた中東戦争での危機である。1968年、ソ連がチェコスロバキアに侵入した際、ソ連はアメリカをはじめとするNATOの干渉を非難した。また、1969年までに、ソ連の核ミサイルの数量がアメリカの対ソ報復に使用できる核ミサイルの数量に大きく近づく。1969年中にアメリカのキッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官(当時)はソ連にベトナム戦争の終結のための協力をおよそ10回も要求した。しかし、ソ連は要求を受け入れなかった。結果的に、1971年までにアメリカがソ連との関係を修復することは不可能であった。

第2節 ベトナム戦争の泥沼化

 もともとベトナムは、1946年から1954年までの間、独立を目指す社会主義体制のベトナム民主共和国と資本主義体制のベトナム国の間でインドシナ戦争が繰り広げられていた。しかし、フランスの拠点であるディエンビエンフーが陥落したことにより、ジュネーブ休戦協定が結ばれた。この協定により、2つの取り決めがなされた。1つ目は北緯17度を休戦ラインにすること、そして2つ目が2年後の南北統一選挙を約束することだった。その後、南ベトナムでは親米派のゴ=ディン=ジエムがバオ=ダイを追放しベトナム共和国を建国していたが、ジュネーブ休戦協定の約束であった南北統一選挙も拒否し軍事独裁政権を展開した。1963年には、軍事クーデタによりゴ=ディン=ジエム政権は倒されたが、以後も政局は安定せずクーデタを繰り返す状態が続いた。そんな中、独裁とアメリカの軍事干渉に反発する民衆の抵抗が高まり、1960年12月、南ベトナム解放民族戦線が結成された。この南ベトナム解放民族戦線は、ベトナム民主共和国の支持を受け、アメリカの支持を受けるベトナム共和国と激しく対立することになった。そして、これがベトナム戦争へと繋がった。

 ベトナム戦争は宣戦布告なき戦争であったため、開戦年月は明言できないが、一般的には1964年8月のトンキン湾事件、もしくは1965年2月の北爆の開始からとされている。トンキン湾事件は、ベトナムを巡視していたアメリカの艦船が北ベトナムの魚雷艇の攻撃を受け、それに対してアメリカも反撃し交戦になったという事件。しかし、この事件はでっちあげで、アメリカがベトナムの内戦に介入するための口実であったと後に発表された。ジョンソン大統領は、この事件を契機とし、アメリカ軍に対する攻撃を退けてさらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる権限を議会に与えた。そして1965年、北爆が開始され、さらに20万人の地上軍も投入された。1968年には、アメリカ軍は南ベトナム解放民族戦線のゲリラ戦術に悩まされ劣勢にまわっていた。さらに、この時期にはアメリカ国内や世界各地でベトナム反戦運動が盛り上がりを見せた。また、1968年3月のベトコン掃討作戦中、ベトナムのソンミ村で女性や子供を含む約500人をアメリカ軍が殺害したことが明らかとなった。このソンミ村虐殺事件が1969年に発覚すると、戦争の正当性に対する疑念がアメリカ国内外で噴出した。

 反戦運動が高まる中、ジョンソン大統領は1968年5月にパリ和平会談を開き、10月に北爆全面停止を声明した。そして1969年に就任したアメリカのニクソン大統領はベトナムからの撤兵を決定したが、1970年にはホー=チ=ミン・ルートの遮断と称してカンボジアに、1971年にはラオス愛国戦線の勢力拡大を阻止するためラオスに戦線を拡大した。このことからこの一連の東南アジアでの戦争は、第1次インドシナ戦争(1946~1954年)に続く、第2次インドシナ戦争とも言われている。このように、東南アジアの内戦に首を突っ込んだアメリカは予想に反して苦戦を強いられ、いわゆる泥沼化に陥った。この状況はアメリカにとって頭を悩ませる問題で、早期解決が求められていた。

第3節 ニクソン大統領とキッシンジャー

 1968年の大統領選は、候補者が死亡したり、都市で暴動が起きたりといった混乱の中で行われた。その選挙を制したのがニクソンであった。彼は、公約に「名誉の形でのベトナムからの撤退」を掲げていた。しかし、この公約を実現するのは容易ではない状況であった。ベトナムでの戦争泥沼化の背景として、「ドミノ理論」というアジアでの共産主義陣営との覇権争いがあったため、ベトナムから撤退するには、ソ連や中国との問題を解決しなければならなかった。キッシンジャーはベトナムからの撤退というミッションを果たすために常に2つの角度から外交に取り組んでいた。1つは、同盟諸国に西側陣営の防衛責任を分散させることである。アメリカの軍事的負担を軽減させるための策略といえる。しかし、それだけでは共産主義陣営の影響力が強まり、西側陣営全体として弱体化の恐れがある。そこでもう1つの角度、すなわち中国との関係改善によって北ベトナムとソ連に圧力をかけることも重要視していた。それによって、ソ連との融和を進めるうえでの有利な立場を実現しようとしたのである。この2つの考えをもつことで、ニクソン政権はそれまでの政権とは異なる外交的姿勢をとった。

 その1つが、中国に対する考え方である。ニクソン大統領は政権発足当初より、核兵器を保有した「強い中国」を取り込む重要性を認識していた。例えば、1969年1月下旬の彼の直筆メモには「中国共産党:短期-変化なし、長期-8億人もの人々を怒らせるような孤独のうちにおくことは望まない」との記載がみられる。同年5月の国家安全保障会議において、キッシンジャーも中国周辺に強国が存在しない点を指摘している。アジアの力の分布において成長を始めている中国をどのように位置づけるべきか、という問題意識がここで共有されている。そしてニクソン政権は、米国パワーの限界を認識し、東アジア各地域の個性を理解したうえで軍事的関与を減らし、独特なバランスによって米国の戦略的利益を維持しようとした。その考え方がニクソン・ドクトリンに表れている。

 ニクソン・ドクトリンや中国訪問、対ソ融和策といった一連の外交軍事戦略の裏には、米ソが対立する「2極」の冷戦構造の世界体制よりも、アメリカ・ソ連・中国・日本・欧州という5つの大国が並び立つ「多極」の世界体制のほうが、アメリカの軍事力・経済力が低下した場合に安定感が大きいと考えるニクソン大統領自身の信念があったのだと、ニクソン政権の国防長官だったメルビン・レアードが、論文「A Strong Start in a Difficult Decade」(1985年)で述べている。

 ニクソン・ドクトリンの前提として、自律的な極が複数ある世界のほうがアメリカにとって好ましい、という考え方が存在していたことは、米空軍の研究者による1974年の論文「National Security in a Decade of Transition」でも指摘されている。これは日本や韓国、英仏独などの同盟国に対し、それまでは米軍が直接派兵していたものを、軍事技術や諜報、核の傘、資金面での支援のみに切り替え、同盟国を自立させ、アメリカの負担を減らすという宣言だった。1971年の沖縄返還は、この宣言の具現化の1つである。

 ニクソン・ドクトリンを「世界多極化」の一環としてみると、これは日本や独仏などをアメリカの傘下から外し、世界の「極」になる自立した大国に仕立てる動きであるが、この多極化戦略は成功しなかった。失敗した理由の1つは、米国内の軍事産業(軍産複合体)が世界多極化による冷戦構造の終焉に反対したためで、もう1つの理由は、対米従属に安住する同盟国が自立したがらなかったためである。

 独仏の自立は、1989年の冷戦終結後の欧州統合まで実現しなかった。韓国は精神面では反アメリカであるが、軍事的には未だアメリカに依存している。日本は、第2次世界大戦後の発展が対アメリカ従属のもとで大きく成功したため自立など真っ平で、ニクソン・ドクトリンの意図を誤解し、日本の軍事拡大は対米従属を強めるためのものと規定した。日本では左翼も「護憲」を理由に、自国の軍事的な自立に反対した。

 ニクソン・ドクトリンは、イランやアラブの産油国に対する軍事支援強化の側面も含んでいた。これは、イスラエルが軍産複合体の知恵袋としてアメリカの政界に食い込んでいたことに対抗し、イランやアラブを軍事的に支援して中東における力の均衡状態を作り、イスラエルの力を削ごうとしたものと考えられる。 ニクソン在任中の1973年には、中東産油国が石油の対米輸出を停止して石油危機が起き、世界の石油利権を支配していたはずのアメリカ・イギリス大手石油業界はほとんど無抵抗であったため、石油が高騰し、アメリカ経済は大きな打撃を受け、その後のアメリカの経済的衰退の端緒となった。これも「イスラエルの力を削ぐ」「アメリカの経済的単独覇権を自滅させる」という意味で多極化戦略の1つに見える。

 ニクソンの他の多極化戦略には、1971年8月の「金ドル交換停止」(ニクソン・ショック)がある。1944年のブレトンウッズ体制(ドル基軸制)の開始以来、アメリカ政府は25年間、世界とアメリカ国内に対して経済援助や戦費、補助金や公共事業などの大盤振る舞いを継続した。その結果、財政赤字と経常赤字(貿易赤字など)が巨額になり、追い討ちをかけるようにベトナム戦争の戦費急拡大によってドルの信用不安が強くなり、アメリカ政府保有の金が流出して底をついたため、ブレトンウッズ体制の根幹をなしていた金ドル交換の保証をニクソンが放棄し、ドルの体制が崩壊した。その後は、金本位制を切り離した疑似変動相場制(スミソニアン体制等)が採られ、現在に至っている。

 ニクソンによる金ドル交換停止はやむを得ない措置だったという見方もできるが、ニクソン政権は金ドル交換停止の直前まで戦費の大盤振る舞いを続けており、意図的にドルの信用不安を悪化させたと見るべきだとも考えられる。一方で、金本位制からの離脱により、アメリカはドルを際限なく刷ることができるようになったため、金ドル交換停止はアメリカの通貨覇権拡大が目的だったという説もある。 ニクソン・ショック後、ドル中心の国際通貨体制の維持に躍起になったのは、アメリカではなくイギリスやドイツ、日本等であった。ニクソン政権のコナリー財務長官は「ドルは私たちの通貨だが、(ドル下落は)君たち(英独日)の問題だ」という有名な発言を残している。

 ニクソン政権より後の歴代政権の多くは、依然として財政赤字や経常赤字の拡大を放置した。金本位制という天井が抜けた分、赤字は急速に拡大し、1985年のプラザ合意や、近年のドル不安等、ドルの崩壊局面が繰り返されている。ニクソン以後のアメリカは、ドルの通貨覇権を粗末に扱って自滅させる傾向にある。ニクソン・ショックは、レーガン時代のプラザ合意と並び、日本の円とドイツのマルクを強化したという点で、世界を「米欧日露中」の5極体制に転換させようとした多極化策の一環である。ニクソンの3代後、レーガンが冷戦に終止符を打って欧州諸国に統合を奨め、ユーロが誕生したことで、ニクソンの時代には叶わなかった世界の通貨体制の多極化が実現された。

第2章 中国から見た米中接近

第1節 台湾問題

 1949年10月1日、中華人民共和国中央人民政府が成立した。中華民国政府に為り変わって全中国の唯一の合法政府となり、国際社会における唯一の合法代表となったため、中華民国の歴史は終焉を迎えた。これは、同一国際法の主体に変更のない状況下で新政権が旧政権にとって代わったものであり、中国の主権および固有の領土・領域も変更がない。中華人民共和国政府が台湾に対する主権をふくむ中国の主権を完全に享有し、これを行使するのは理の当然である。

    国民党支配集団が台湾に退いて以降、政権は引き続き「中華民国」と「中華民国政府」の名称を使用しているとはいえ、中国を代表して国の主権を行使する権利はとうに失っており、実際には中国領土における一地方当局にすぎない。

中華人民共和国中央人民政府は、成立の当日、直ちに各国政府に向けて「本政府は中華人民共和国全国人民を代表する唯一の合法政府である。およそ平等、互恵および領土・主権の相互尊重などの原則を守ろうとする外国政府であれば、本政府はひとしくこれと外交関係を樹立したい」と宣言した。その後さらに国連に打電して、国民党当局は「すでに中国人民を代表するいかなる法的、事実的なよりどころをも失っており」、中国を代表する権利が全くない、との声明を出した。中華人民共和国政府が全中国を代表する唯一の合法政府であることを認め、台湾当局と外交関係を絶つこと、あるいは樹立しないことは、新中国の外国との国交樹立の原則である。

 また、アメリカにとっての政策の優先順が明記されているメモも残されている。ここでは、ニクソンは台湾問題を米中交渉の「最も死活的」なものとみなしており、「最も急ぎ」としてあるベトナムより順位を上位に設定している。「時間―優先順位 ①台湾―最も死活的②ベトナム―最も急ぎ③朝鮮半島④日本⑤インド⑥ソ連(アメリカの他国との関係には異論を唱えず)」これは中国側との討議における時間的な優先順位を記したものであった。ニクソンが訪中し、毛沢東、周恩来らとの会談に臨むと、二つの中国を奨励しない、米軍が台湾から撤退する、大陸反攻を奨励しない、日本の軍隊(の台湾への干渉)に反対する、台湾独立運動を奨励しない、という5点が口頭了解として中国側に与えられた。

第2節 中ソ対立

 第二次世界大戦以後、冷戦時代に突入する中で、社会主義(マルクス=レーニン主義)を掲げて共産国家建設を目指していたソ連と中国は、中ソ友好同盟相互援助条約(1950年締結)で結ばれた同盟国であった。そもそもソ連は、第二次世界大戦によって連合国の中で最大の被害を受けた国であった。そうした中、スターリンの独裁政権の下で数次にわたる5ヶ年計画により国力を回復し、社会主義世界を広めていくことによって国際的発言力を強めたという過去があった。そのため、スターリンの影響力は国内外で非常に強いものであった。しかし、1953年にスターリンが病死すると状況は変化していった。転機となったのは、1956年のソ連共産党第20回大会で当時の第一書記であったフルシチョフがスターリン批判を行ったことである。それまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換を図り、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義へ移行することが可能であると呼びかけた。フルシチョフが打ち出した戦争不可避論の否定や平和的手段による社会主義の実現といった思想に対し、中国共産党の毛沢東は、スターリン路線の継承する立場からフルシチョフらソ連共産党の転身を修正主義であるとし、また、平和共存路線は帝国主義への屈服であるとして受け入れないという姿勢をとった。こうしてスターリン批判で芽生えた中ソ対立は、1959年のチベット反乱から転じた中印国境紛争を機に表面化した。ソ連は1959年、核兵器開発への協力を中止、さらに中ソ技術協定を破棄し技術者の引揚げを通告し、対立は決定的となった。毛は独自の社会主義国家建設を目指して「大躍進」運動を開始し、第2次五カ年計画ではソ連の援助なしでの工業化をめざした。また1962年のキューバ危機を回避した米ソ両国が1963年に部分的核実験停止条約に合意すると、毛はそれに反発して自国での核兵器開発を進め、1964年に核実験を成功させた。同年のフルシチョフ失脚後も対立は続き、1965年ごろから本格化した文化大革命でも毛はソ連を修正主義として激しく非難した。1968年にチェコ事件でソ連のブレジネフ政権がワルシャワ条約機構軍によって武力介入したことにも毛は大きな危機感を抱き、ソ連との武力衝突にも備えたという。1969年にはウスリー江のダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争に発展した。ベトナム戦争でも中ソは共同歩調をとることはなく、アメリカの武力行使を可能にしたという側面がある。毛はソ連を最重要の敵と位置づけるまでに対立をエスカレートさせたが、各国の共産党はアルバニアを除いておおむねソ連共産党を支持した。

第3節 中国国内の問題

 まず初めに、文化大革命前の1949年の中華人民共和国建国から1960年代半ばまでの状況について振り返る。この時期の中国共産党主導の政権は社会主義的な国家建設と経済近代化の実現を国家の目標としていた。ただし、中国国民党との壮絶な内戦に勝利したばかりの時期であったため、新たな国家建設や近代化の試みは難航した。

 共産党政権は、戦争により疲弊した経済の復興を最初の数年間で実現し、政権の基盤を固めていった。続いて、1950年代半ばを中心とした時期には、ソ連型の社会主義工業化を進め、社会主義社会への改造を実施し、国会にあたる全国人民代表会を新たに発足させ、社会主義憲法を採択した。1950年代後半になると、ソ連型とはまた異なる独自の社会主義への方針転換が毛によって進められた。「大躍進」といわれる毛の試みは、中国独自の方法として、工業では西洋技術と「土法」(伝統技術)を併用することと、農業では集団化を進めた人民公社を建設することを掲げた。工業では鉄鋼業生産が特徴的であったが、品質は軽視され、増産のみが強調された。この運動は、経済の高度成長により先進国に追いつくことと、集団化により共産主義に近づくことを目標として掲げていたが、結果として1600万~2700万人を餓死させる等、失敗に終わる。その理由として、まだ生産力の基盤が弱い国内の状況を無視した大躍進の諸政策、とくに重工業優先政策と、農村における「共産風」や、幹部の押しつけへの抵抗として生じた農民の生産意欲減退、1959年から1961年まで続いた自然災害ならびにソ連の援助打ち切りが挙げられる。その後、毛に代わって国家主席になった劉少奇と総書記の鄧小平により飢餓と経済破綻に対する調整政策が進められた。市場経済を取り入れ、農家にも自主的な生産をさせるなど、なかば修正主義的な立場をとって再建に向かっていった。毛はこれを革命の妨げとして批判したが、毛の失脚後は、林彪ら支持派による毛の神格化が進められ、彼らに支えられた毛は密かに政権奪回の機会を窺っていた。毛の政策が正しかったのか否か、大躍進と経済調整の評価をめぐり、共産党内の意見は二分され、後の大革命への導火線となった。

第3章 周辺国に対する影響

第1節 日本への影響

 米中接近は日本に大きな衝撃を与えた。ニクソンの訪中が日本に通知されたのはわずか数十分前にすぎず、それは米中だけで決定されたものであった。日本政府(佐藤内閣)は仰天した。日本はアメリカと強固な同盟関係にあり、つい数ヶ月前にはニクソン=佐藤栄作会談で両国の緊密な連携を約束していたためである。当時、日本は中国共産党政権を承認し、台湾を切り捨てることは考えられず、特に与党自民党の中には親台湾派が多数存在していた。何よりもアメリカがこのような重大な外交方針の転換を同盟国日本に相談なしに実行するとは考えられなかった。

 しかし、アメリカのニクソンとキッシンジャーの外交はそのような甘いものではなかった。事前に日本の了解を得ることは困難と考え、秘密裏に事を運び、ニクソン訪中のマスコミ発表の数十分前に電話で日本の外務省に知らせただけであった。その背景には、いくつかの事実があった。1つは、当時並行して進められていた日米繊維交渉で、日本側の態度が煮え切らず、アメリカ側が苛ついていたことである。そしてもう1つは、そもそもキッシンジャーが日本に対してよいイメージを持っていなかったことである。「率直な日本観を示す。これは米政府全体の見方ではないが、ホワイトハウスの代表的な見解だ。中国と日本を比較した場合、中国は伝統的に世界的な視野を持ち、日本は部族的な視野しか持っていない。」これは、実際にキッシンジャーが周恩来との会談で放った言葉である。さらに彼はこのように述べた。「日本と英国は違う。日本は自国の社会があまりに異質なので、社会を適合させ、国の本質を守ろうとする。日本は突然の大変化も可能で、3カ月で天皇崇拝から民主主義へと移行した。」アメリカは外交を冷徹なマキャベリズムで判断していたのに対し、日本は「信頼関係」や「友人」といった、甘く感情的なレベルでしか捉えていなかったことに問題があった。

 日本政府、外務省がニクソン訪中について事前に情報を捉えていなかったことは、情報収集能力、外交能力に欠けるとして、マスコミは佐藤内閣と外務省を厳しく批判した。それは佐藤内閣が7月に退陣に追い込まれる直接の要因となった。

第2節 インドネシアへの影響

 インドネシアのスハルト大統領は、ニクソン・ショック後の日本の急速な対中接近を阻止する意図から、オーストラリアを巻き込み、自民党の派閥政治にまで介入した。スハルトは、日本の急激な対中接近がこの地域の政治バランスを崩すと予想し、利害を共有するオーストラリアとともに「日・ 豪・インドネシア」の協調的枠組みを提起した。しかし日本側の対応は、米中和解でアジアの冷戦構造溶解後、日中関係の構築に力点を置く田中と、中国周辺諸国とのバランスを取る中で日中関係を進展させようとする福田とに割れた。結局スハルト構想には田中が無関心、福田が積極姿勢を示したが、田中が総裁選で福田を制したため、その試みは挫折する。 74年に田中が東南アジアを歴訪した際、タイとインドネシアで反日暴動に直面し、「北京一辺倒の外交姿勢を改めよ」と批判される一方、福田は首相就任後の 77 年に東南アジアを訪問した際、東南アジア諸国との「心と心のふれ合う相互信頼関係」などを謳った「福田ドクトリン」が東南アジア側から高い 評価を受ける。このように、米中接近は米中和解に留まらず、日本を動かし、その日本の動きにアジア・太平洋諸国が触発されて重層的な流動性をもたらした。

【参考文献】

増田弘[編]『ニクソン訪中と冷戦構造の変容―米中接近の衝撃と周辺諸国』慶応義塾大学出版会(2006)

毛里和子・毛里興三郎[訳]『ニクソン訪中機密談録』名古屋大学出版会(2001)

入江通雅[編]『ニクソン訪中後の日中;日中問題の見方・考え方』原書房(1971)

田久保忠衛『ニクソンと対中国外交』筑摩書房(1994)

鈴木英司『中南海の100日;秘録日中国交正常化と周恩来』三和書籍(2012)

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