【レポート】サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』

【レポート】サミュエル・ベケット:ゴドーを待ちながら

はじめに

 『ゴドーを待ちながら』En attendant Godot(以下『ゴドー』)は、アイルランド出身の作家サミュエル・ベケットが1948年からその翌年にかけてわずか4か月で書き上げた劇作品である。1953年にパリのバビロン座で初演をむかえ、その5年後には20言語以上に翻訳され、現在まで世界中で親しまれている。『ゴドー』は、二人の浮浪者のような風貌をした老人がゴドーという人物を待ち続けるだけの作品で、多くの物語に見られる起承転結も、決定的なクライマックスも存在しない。劇的な展開がなく「不条理劇」とも呼ばれるこの作品が、なぜこれほど世界中で愛され続けているのか。さらに興味深いのは、この作品がとりわけ戦争・災害などが起こったタイミングで上演されていることが多い点である。ある特定の「そのとき」、「その場所」で『ゴドー』の上演が必要とされた理由は、一体何なのだろうか。本論では、ベケット自身の戦争体験、『ゴドー』が投げかける問い、そして近年に行われた複数の上演の分析を通し、『ゴドー』がなぜ上演され続けるのか、その現代性について考察したい。

『ゴドーを待ちながら』とベケットの戦争体験

『ゴドー』の物語と構造

『ゴドーを待ちながら』は、夕暮れ時、サーカスの道化のような恰好をした初老の浮浪者らしい男二人が、ゴドーという名前の何者かを待っている。ゴドーが来れば救われるはずなのだが、ゴドーは一向に現れず、二人は毎日木の他になにもない田舎道でゴドーを待ち続ける。彼らは、そこがゴドーと約束した待ち合わせの場所だと確信しているのである。幕が開くと、二人のうちの一人、あるエストラゴンが自分の長靴を脱ごうとしているが、なかなか脱げないでいる。もう一人のヴラジミールは、キリストと共に磔にされた泥棒二人のうち、一人が救われたという福音書が一つだけあって、ほかの福音書にはそう書かれていないのはなぜだろうか、と疑問に思っている。やがて、このあたりの地主だと称するポッツォという男が、自分の奴隷だというラッキーという男の首にロープを巻いて、その端を持ってやってくる。ポッツォはヴラジミールとエストラゴンの前でこれ見よがしに骨付きの鶏肉を食べ、食べ残した骨をラッキーの方へ投げる。それを欲しがるエストラゴンは、ラッキーの許可を得て骨にかぶりつく。知り合いになったお礼にとポッツォはラッキーに綱という踊りと、思考を表すわけのわからないスピーチをやらせ、ヴラジミールとエストラゴンをうんざりさせて去ってゆく。すると今度はゴドーの使いだという少年が現れて、「ゴドーさんが今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」というメッセージを告げる。これもこの日が初めてではないらしい。少年が去るとあたりは闇に包まれ、月が昇る。ヴラジミールとエストラゴンは木に紐をひっかけて首を吊ろうかというが、紐がないのでできない。二人は諦めてその場を立ち去ろうとするが二人は動かず「行かない」。幕が下りる。第二幕になると、木に葉が数枚ついている。舞台手前にはエストラゴンが第一幕で置いていった長靴が置きっぱなしになっている。ヴラジミールは、「犬が一匹腸詰を パクリとひとつやったので 肉屋は大鉈ふりあげた あわれな犬はこまぎれに……」という同じ歌詞が永遠と繰り返される歌を口ずさんでいる。エストラゴンと再会すると、二人はまた暇つぶしになるようなことをあれこれやってみる。そこへ再びポッツォとラッキーがやってくると、二人してヴラジミールとエストラゴンの前で倒れる。ポッツォが助けを求め、助けることに決めた二人も倒れ込み、しばらく4人が舞台に倒れた形になる。ようやくヴラジミールとエストラゴンが立ち上がり、ポッツォを起こしたところで、彼らは、ポッツォの目が見えなくなり、ラッキーは口が利けなくなっていることを知らされる。第一幕では「去りがたい」といいながら二人との別れを惜しむように去っていったポッツォは、今度はさっさと退散してしまう。ポッツォとラッキーが去ると、また第一幕と同じ少年が現れ、第一幕と同じメッセージを告げる。しかし、少年は第一幕で登場したのは自分ではないと言う。少年が去ると、また夜が訪れ、二人きりになったヴラジミールとエストラゴンは、エストラゴンのズボンの紐を使って首を吊ろうとする。ところが、紐はあっさりちぎれて、自殺計画は失敗に終わる。ヴラジミールはエストラゴンに、くるぶしまで落ちてしまったズボンを上げさせ、二人はまた「行こう」といいながらも「行かず」、閉幕となる[1]

 このように、『ゴドー』は、第一幕と第二幕が同じことの繰り返しであるように見えて少し違っている。同じことが延々と行われ、とりとめがないようにも見えるが、少しずつ形を変え、だんだんと無・虚無へと向かっている。物語自体にも劇的な展開はないが、その中でも「待つ」という行為をしながら行われる会話の中に、いくつかのテーマがあるように思われる。例えば時間や場所については何度も繰り返し話題に出ていて、ヴラジミールとエストラゴンはそれらについて、噛み合わない会話をテンポよく繰り広げる。

   ESTRAGON  Nous sommes déjà venus hier.

   VLADIMIR  Ah non, là tu te goures.

   ESTRAGON  Qu’est-ce que nous avons fait hier ?

   VLADIMIR  Ce que nous avons fait hier ?

   ESTRAGON  Oui.

   VLADIMIR  Ma foi… (Se fâchant.) Pour jeter le doute, à toi le pompon.

   ESTRAGON  Pour moi, nous étions ici.

   VLADIMIR  (regard circulaire).  L’endroit te semble familier ?

                                            (En attendant Godot, Acte I, p21)

エストラゴン おれたちは、きのうもここへやって来たんだぜ。

ヴラジミール いいや、そりゃ違う。

エストラゴン じゃあ、きのうは何をした?

ヴラジミール きのう、何をしたって?

エストラゴン そうさ。

ヴラジミール そりゃあ……(怒って)おまえは、人に疑いを起こさせるのだけ

は一人前だよ。

エストラゴン おれたちはここにいたんだ。おれは、そう思っている。 

ヴラジミール (視線をめぐらして)場所に見おぼえがあるのかい?

(『ゴドーを待ちながら』第一幕、p.17)[2]

 ここで時間や場所の会話を繰り返しているのは、二人が老人であることも関係しているだろう。世間のお年寄りの会話に耳を傾けてみても、同じことを何度も繰り返したり、お互い噛み合っていないことに構わず話し続けたりしている様子が見受けられる。この「老い」も『ゴドー』のテーマの一つになっている。

 また、木が一本しかない舞台や、いつも空腹状態で、他人が食べ残した肉の骨すら欲しがっている様子などから、戦争のイメージと重なる部分が多々ある。

 ゴドーはいつまでも現れず、老いの程度は日を増すごとに強くなっていくこの物語は、「救い」がないように見えながらも、実は「救い」や「共生」が主題の作品なのである。「時間・場所」「老い」「戦争」「共生」というそれぞれのテーマについては後ほど詳述する。

 「不条理」といわれるこの作品は、筋だけではなく「劇構造」にも従来の戯曲とは異なる点が見られる。『ゴドー』の世界では「時間」も「場所」も定かではない。この筋と構造の新しさによって、『ゴドー』が「現代演劇の祖」と言われ、演劇世界に革命を起こすことになった。

 また、俳優たちは演じるというよりも、観客たちに自分自身をさらけ出していると言える[3]。そこでは「演技」を披露することができず、俳優たちは登場人物の行っている動作を実際にやってみることで、身体的・生理的感覚を実体験する。不安な気持ちや不自由な身体の動き、退屈や苛立ちといった気持ちを俳優たちが自身に重ね合わすことができれば、それを観ている観客たちも目の前の俳優たち、そして登場人物たちの感覚や気持ちを共有することが可能になる。

ベケットの戦争体験

 続いて、『ゴドー』の誕生に至るまでのベケットの人生と、その戦争体験について見ていくことにする[4]。サミュエ・ベケットは1906年にアイルランドのダブリン郊外にあるプロテスタントの家庭に生まれた。この頃、アイルランドはイギリスの統治下にあったが、ケルト系カトリックあいだで独立の気運が高まっていた。独立に向けて活発に活動していたのは、IRA(Irish Republic Army アイルランド共和軍)の前身、アイルランド義勇軍を創設したシン・フェイン党である。その記念すべき大事件が、1916年4月24日の復活祭蜂起で、独立派がダブリンの中央郵便局などの要所を占領し、仮政府を樹立した。このときはイギリス軍に鎮圧され、指導者たちは処刑されてしまうが、これがきっかけで1922年には今もイギリスの一部である北アイルランドを除く島の南部にアイルランド自由国という自治政府が誕生し、1949年には完全に独立を果たす。この1916年の復活祭蜂起で火の海となったダブリンの街を10歳のベケットは父親と一緒に自宅近くの小高い丘の上から眺めていた。このときの体験は、彼の作品の中でもたびたび登場するほどトラウマ的な出来事となっている。その後、トリニティ・カレッジ・ダブリンを卒業した翌年に、ベケットはフランスに渡り、エコール・ノルマルで英語教師を務める。アイルランドに帰国後、母校の講師の職を得るが、教えることがどうしても性に合わず、逃げ出すかたちで大学を辞した。その後、作家を志すが当時のアイルランド政権の厳しい検閲制度に苦しめられ、さらに、講師としての輝かしいキャリアを捨て、厳しい金銭状態にある息子を心配する母親との関係が悪化し、イギリスやドイツなどに滞在した後、フランスに渡る。ベケットは、生活が厳しいことを覚悟した上で、この地で「外国人」として生きることを選んだ。宗教や本の検閲など、アイルランドで制限されていたものから自由になり、独り立ちをする覚悟を決めたのである。1938年、パリでの文筆活動も軌道に乗ってきた頃、路上で見知らぬポン引きに刺されるという事件に巻き込まれている。刺した理由を聞かれて「わかりません。」と答えたポン引きの言葉は、『ゴドー』で少年がヴラジミールに答える言葉になっている。このとき、病院で献身的に看病してくれたのがシュザンヌ・デシュヴォー=デュムニールで、これ以降ベケットはシュザンヌと生活を共にする。そして1939年9月、アイルランドに帰郷中のベケットはフランスとドイツが交戦状態であることを知り、中立国であるアイルランドの国籍を持ちながらわざわざフランスに舞い戻っている。フランスで出会い親交のあった友人への想いや、ユダヤ人を強制的に逮捕するドイツ軍の仕打ちに我慢ならなかったのだという。そして、ベケットはドイツ占領下のパリで、対独レジスタンス活動に参加し、ゲシュタポに追われて南仏のヴォークリューズ県のルシヨン村に逃げ、戦争が終わるまでこの村に潜伏した。アイルランド国籍で有効なパスポートを持っていなかった上に、パリでレジスタンス運動にも参加しており、ナチス秘密警察から見つからぬよう、息を潜めてこの村に滞在していた。『ゴドー』でテーマとなっている「待つ」という行為は、不安を抱えながら戦争の終結を待ちわびていたベケットの生活そのものであったと言える。

 戦争終結後もフランスのサン・ローのアイルランド赤十字病院で勤務をし、そこでの実体験を「廃墟の都」という文章にした。これは後に1946年の6月10日にアイルランドのラジオ・エリンによって放送されている。サン・ローでの想像を絶する経験―何も残っていない焼け野原や、売春や強姦による性病の萬栄などは、『ゴドー』の一本の木だけという舞台設定や、ヴラジミールがかかっているとされる病気のそれと一致する。

 またベケットは後年、創作の場所をパリのアパルトマンから1950年に亡くなった母の遺産で購入したユシーの別荘に移している。この地域は第一次世界大戦の激戦区だったマルヌ川沿いの町で、何もない『ゴドー』の舞台を思わせるような場所である。ここでベケットは耕作をしながら執筆を行っており、戦時中のルシヨンでの生活に近いものを送っていた。 

 ここから、ベケットにとって、戦争によって何もかもが奪われ、まっさらになってしまった場所は非常に身近なものであったことがうかがえる。この一連の戦争体験の中でも特にレジスタンス運動に参加していたときの経験が、『ゴドー』に非常に大きな影響を与えていることは「最も明白」であるとヒュー・ケナーは指摘している。この劇の世界が、戦争中に作者が過ごした、ドイツ占領下のフランスに似ている、という最も明白な事実に読者や観客が気づかないのは奇妙である。その厳しい世界では待つことがどんなにたくさんあっただろうか。レジスタンスの工作員たち、すなわち誰しもが故郷を喪失していたときに故郷を喪失していた人びと、意味の分散を毎日新たにする匿名の普通の人びとが、会う約束をしていた相手が誰かも知らずに、姿を現さない、現わさないにはそれなりの理由があったかもしれない、あるいは捕らえられたせいで現れない、ということをどれだけ経験しただろうか。ともすると目立ちすぎる異邦人ができるだけ目立たないように何もしないという技に頼らなければ生きていられず、自分が知っていなければいけないこと以外は何も誰にも漏らしてはいけないというのがレジスタンスの主たる申し合わせ事項になっていたなかで、あてにならないメッセンジャーに待ちぼうけを食らわされても、そんなことよくあることだと知らん顔をしなければならないということが、どれだけ頻繁にあっただろうか[5]

 この記述からも分かるように、レジスタンス運動に参加した中でベケットが経験した特殊な情報伝達システムが、『ゴドー』の主題の背景にあることは間違いない。幕の最後に少年が現れ、「ゴドーさんになんて言いましょうか。」と聞かれるとヴラジミールは「わたしたちに会ったと言いな。」と答えるが、実際のレジスタンス運動の現場でもこのようなやり取りがなされていたことだろう。レジスタンス運動では、自分の役割が明確に説明されることはなく、名前も素性も知れない同士がメッセージを伝えあうことがその主たる仕事だった。名前も素性も知れない同士のやり取りは、当然のことながら友情といったものは生まれるわけもなく、非常に孤独な作業だったことだろう。また、伝達されるメッセージは暗号化されているため、メッセンジャーは自分の運んでいるメッセージの意味を理解することなく伝達していた。ラッキーの長いスピーチは、そんな暗号化されたメッセージから着想を得たものかもしれない。

 名前も素性をわからない相手にメッセージを伝達することは、来るかどうかもわからない人を待ったり、待ちぼうけを食らったりすることでもあった。さらに、自分が知らない相手にメッセージを渡すのだから、間違いがないよう十分注意する必要があり、来た相手を疑ったり、怪しんだりすることは当たり前だった。エストラゴンがポッツォとゴドーを間違えたことに対して弁解をする場面では、ゴドーがメッセンジャーであるようなせりふが続く。

POZZO  Vous m’avez pris pour Godot.

VLADIMIR  Oh non, Monsieur, pas un seul instant Monsieur.

POZZO  Qui est-ce ?

VLADIMIR  Eh bien, c’est un… c’est une connaissance.

ESTRAGON  Mais non, voyons, on le connaît à peine.

VLADIMIR  Evidemment… on ne le connaît pas très bien… mais tout de même…

ESTRAGON  Pour ma part je ne le reconnaîtrai même pas.  (Godot, ActeⅠ,p.36)

ポッツォ わしをゴドーと間違えただろう。

ヴラジミール いいえ、どういたしまして、そんなことはけして。

ポッツォ 誰だね?

ヴラジミール はあ、それが…ちょっとした知り合いで。

エストラゴン そりゃ違う。そうじゃないか、知ってるってほどじゃない。

ヴラジミール そりゃそうだ……知り合いなんてものじゃない…しかし、だから

といって……

エストラゴン おれは、会ったってわからないくらいだ。

(『ゴドー』第一幕、p.34)

 上記のやりとりから、ゴドーとは今まで一度もあったことがなく、現れてもすぐには誰だかわからない存在ということが分かる。

 次に、「待つ」という行為に目を向けたい。『ゴドー』の草稿を丹念に調査した西村和泉氏によれば、「ゴドー」という名が冒頭から登場する出版稿とは異なり、草稿では「ゴドー」も「待つ」という行為も第一幕の中盤でようやく現れたという。さらに、「さあ、もう行こう。」「だめだよ。」「なぜさ?」「ゴドーを待つんだ。」という劇中何度も登場する一連のせりふも書かれていなかったという[6]。ここから、「ゴドーを待つこと」は実はもともと中心テーマとして設定されていなかったことがわかる。この「ゴドーを待つこと」は例えば、ヴラジミールとエストラゴンが以前ヴォクリューズで、ルシヨンとボヌリィという人の家でぶどう摘みをしたという思い出話のように、作品のあらゆるところに散りばめられているベケットの体験談の一つととらえることができる。そこで、代わりに作品の中心テーマとして考えられるのは、自身の作品に関してあまり言及しないベケットが答えたコメントが鍵になりそうだ。『ゴドー』イギリス初演のエストラゴン役であるピーター・ウッドソープに、この作品の意味をたずねられた際、彼は「共生関係だよ。」と答えたという[7]。この「共生関係」に関しては後の作品分析で詳しく触れることとする。いずれにしてもここで取り上げたベケット自身の戦争体験が、作品にかなり大きな影響を与えていることは明らかである。

 戦争や軍隊という視点で『ゴドー』を見ていくと、他にも以下のような関連性が認められる。まず服装に注目すると、エストラゴンの靴は軍隊用の長靴であるし、ポッツォの外套は軍服である。そして、ポッツォの「後退! Arrière !」「とまれ! Arrêt !」「回れ右! Tourne !」といったような掛け声は軍隊の行進のそれを思わせる。ラッキーの膿んでただれた首も、エストラゴンの「膿んでじくじくしてきた」脛の傷も、医療が行き届かない戦場で傷に苦しむ人々と同様だった。また、とらえられた敵の兵士に対する拷問を連想させるような「暴力」も数多く登場する。エストラゴンは夜、溝で寝ていると十人もの連中に「ぶたれ」るし、ラッキーには脛を「蹴られ」る。そして、ポッツォの態度は、第二次世界大戦中のヒトラーやスターリンに代表される独裁者を思わせ、そのことはヴラジミールの「スターリン的こっけいだ。」というせりふからも見て取ることができる。しかしながらこのせりふは、フランス語初版のみで確認されるものであり、フランス語第二版や英語版では削除されている。この点に関して、安堂信也・高橋康也訳の『ゴドー』の注には、「あまりに現実的・政治的な言及を避けたのか」という見解が示されている。他方ラッキーは強制収容所に送られた囚われの身の人々を想起させる。ポッツォはラッキーをサン・ソヴールの市場まで連れていき売り飛ばそうとしているが、「(前略)ほんとうはこんな生き物を追い出すなんて不可能だ。為を思ったら、殺すよりしかたがない。」というせりふから、ラッキーの殺害をも匂わせている。しかしながら、その後昔を回想しながら「昔は…昔は優しかった…わしを助けて…気を紛らわせてくれて…わしをよいほうに導いてくれて…今じゃ…人を殺す気だ…」というせりふから、以前は従順だった従士の逆襲を感づいている発言をしており、独裁者につきものの暗殺計画を恐れていたととらえることができる。

 他にも、観客を「死体の山」や「死骸」と表現する点や、第二幕の序盤でのエストラゴンとヴラジミールの以下の掛け合いからも、ホロコーストを意識した作品であると言うことができる[8]

ESTRAGON  Pour bien faire, il faudrait me tuer, comme l’autre.

VLADIMIR  Quel autre ? (Un temps.) Quel autre ?

ESTRAGON  Comme des billions d’autres.  (Godot, ActeⅡ, p.104)

エストラゴン 為を思ったら、おれを殺すよりしかたがない。そうだろ、ほかの

やつと同じだ。

ヴラジミール ほかのって、どの?(間)え、どのだ?

エストラゴン 何十億のほかのやつらさ。

(『ゴドー』、第二幕、p.103-104)

 ここで言及されている、始めの「ほかのやつ」は単数形であり、一幕でのラッキーの繰り返しであると考えられるが、「何十億のほかのやつら」というのは、大量に虐殺されたユダヤ人を表すと考えられる。そもそも、ベケットが第二次世界大戦中にレジスタンス運動に参加しようとしたきっかけは、ユダヤ人の友人であるポール・レオンがナチ秘密警察に捕まり、収容所に送られたことがきっかけだった。そして同じくユダヤ人の友人アルフレッド・ペロンの勧めもあって、妻のシュザンヌと共に運動に参加する。しかし、そのペロンも逮捕され、収容所に送られ、解放されるまで生き延びたものの、その後すぐに亡くなってしまう。ナチスによるユダヤ人の虐殺は、戦後少ししてから公になるが、レジスタンス運動に関与していたベケットなら、戦時中すでにそのことを知っていたとしても不思議ではない。

 また、エストラゴンの名前は、草稿の段階で、一幕では「レヴィ」というユダヤ系の名前になっており、第二幕ではアラブ発祥のハーブの名前である「エストラゴン」となっている。ベケットの草稿にいち早く注目したルビー・コーンはこの変更について、ユダヤ人がドイツ占領軍に悟られないよう名前を変えていたことに由来するのではないかと考えている。また、ジャン=ミシェル・ラバテもソ連軍が強制収容所を開放したユダヤ人の歴史を『ゴドー』に重ね、ペロンのオマージュとしてエストラゴンを描いたのではないかと推測している。ペロンが収容所で生き延びられたのは、ポロという囚人のおかげで、ポロはペロンを詩人と見なしていた。ヴラジミールがエストラゴンに「お前、詩人になりゃよかったな」というのはその証拠だとラバテは考える。

 このように、『ゴドー』という作品はベケット自身の戦争体験と強く結びついている。それゆえ世界中の戦争や災害が起こった際、同じ文脈で、その事態の悲惨さを重ね合わせて考えることができる点が、現在でも数多く上演されている一つの大きな理由であろう。

 ベケット自身も、作品の執筆を始めた草稿の段階では、上で述べてきたような具体的な戦争のイメージが頭にあったことだろう[9]。しかし、25年後の1974年にベルリンにて、自身として初めて演出を手掛けたときには、恐らく執筆当初とは別の文脈の解釈が加わっていたことは想像に難くない。とりわけ、冷戦下のベルリンという土地柄、ヨーロッパ東西の問題として響くように再考していたに違いない。コーンは、そんなベケットの創作上のプロセスを「曖昧化」(’vagueing’)と名付けている。草稿を重ねて最終稿にしていくなかで、はじめのうちは場所、時間、個人像などが特定されていたものが、具体的な記述が削られ、曖昧なものになっていく。そんな「無意味さ」が多くの文脈に当てはめて演出できる理由である。また、『ゴドー』を英訳した際にも既にその跡を見ることができる。「何もない」’Nothing’は、英語版のほうが多用され、ゴドーの存在自体も曖昧さを増している。それとは反対に、聖書やシェイクスピアなどの言葉のもじりが取り入れられ、第二次世界大戦中の出来事と思われる記述もより普遍性を増している。せりふの意味が多義的で、本来結びつくテクストが曖昧だからこそ、異なる「場」でも極めて有効に作用するのだ。それは、これまで述べてきたベケットの二次大戦での実体験が「普遍化」され、それぞれの演出で新たなイメージが加えられた作品が誕生し、それを観た観客は、頭の中にある自身の具体的なイメージやトラウマ的体験と結びつけてこの作品を受容することが可能になる。それが、今日まで『ゴドー』が上演を繰り返してきた最たる理由である。

『ゴドー』が投げかける問い

 第一章ではベケットの戦争体験という視点から『ゴドー』を読み解いたが、ここでは他の側面にも目を向け、『ゴドー』をより詳細に分析していく。先述のように、ベケットはこの作品の意味を尋ねられた際、「共生関係だよ」と答えたというが、果たしてその言葉は何を意図するのか。主に、「身体の不自由さと老い」と「戦争」という二つが鍵となっているように思われる。そこで、本章では主にこの二つのテーマに注目し、これらと関わり合う「絆や共生」といった価値観、および「時間・空間・記憶」について記述する。

身体の不自由さと老い

 まず、登場人物たちの年齢に着目すると、各幕の最後で登場する少年を除いて、登場人物たちはみな老人であろう。例えばエストラゴンは終始、足を引きずりながら歩いているし、前日にしたことすら忘れてしまっている。ヴラジミールも、エストラゴンほどではないが、ポッツォから「失礼だが、おいくつかな?(沈黙)六十?…七十?……」と尋ねられている点から見ても、老人であることはまず間違いないだろう。ラッキーとポッツォに関しても、「ゆたかな白髪と全くの禿」という描写や、第二幕で、ポッツォは目が見えず、ラッキーは口が利けなくなってしまうことも、二人が共に老人であることの裏付けになる。「老い」とは、人間誰しも避けられないものであり、自分の身体の自由が利かなくなることにフラストレーションを覚えたり、失望したりすることも少なからずあるだろう。しかし、そんなときこそそばにいて、支えてくれる存在の大切さに気が付くものである。『ゴドー』の中では、この四人が互いに助けを求め合い、身体を支え合い、抱擁を交わす場面が多く登場する。身体の動きに関するト書きや、互いの身体的接触が多い点はこの劇の一つの特長であると言える。言葉では互いを思いやるような表現は少なく、むしろ衝突やボタンの掛け違いのような噛み合わなさが目立つ。言葉ではなく身体の動きで互いの存在の大切さを暗示しようとしたことが考えられる。また『ゴドー』のテクストにはせりふの言い方や、動作、間のとり方まで細かく指示が出されており、演劇というメディアならではの、視覚的効果を最大限活用しようと考えていたことがうかがえる。

 ヴラジミールとエストラゴンも互いに「別れた方がいいのかもしれない」「ひとりの方が調子がいい」などと言い合っているし、ポッツォもこれからラッキーをサン・ソボールの市場に売りにいく道中だそうだが、どちらも、何十年という長い間連れ添った間柄であり、別れる気がないことは、言葉にこそしてはいないが感じ取ることができる。たとえ互いに気に入らない部分があるにせよ、誰かがそばにいてくれる、一人じゃないことは、心強く感謝に値する思いを持つものである。長年一緒にいる中で、性格や価値観などが原因ですれ違いを感じることもあるが、それでもやはり互いを必要としている。それは、人間の本能とも言うべき部分であるし、それこそがベケットの表現したかった「共生」だったのではないだろうか。1947年7月から10月に執筆された小説『メルシエとカミエ』は『ゴドーを待ちながら』のヴラジミールとエストラゴンの前身と考えられているが、小説『名づけえぬもの』の語り手が作中で彼らを「疑似カップル」という名で呼んでいる。あるとき、メルシエがカミエにおつかいを頼んだ際、カミエがお菓子の名前を知らなかったというが、キアラ・モンティ二はそこに二人が持つ文化の差異を見いだしている[10]。互いの「わからなさ」を前提とした二人の関係は、ヴラジミールとエストラゴンの関係や、彼らとポッツォ、ラッキーの関係にも受け継がれている。ヴラジミールとエストラゴンに至っては、長年連れ添った夫婦のように、持ちつ持たれつの関係性を見て取ることもできるだろう。

 このような、身体的不自由さは年齢を重ねれば誰しもが経験することであり、また若年であっても病気や怪我などをして初めて、一人ではどうにもならないときがあり、他者のありがたさを感じるという機会があるだろう。

 また、西村和泉氏はこの「共生」を考えるにあたって、「紐」に着目して独自の意見を述べている[11]。エストラゴンの靴紐や、二人が首を吊ろうとする紐、そしてポッツォとラッキーをつなぐ紐など、この作品には多くの「紐」が登場する。エストラゴンの靴と靴紐は、彼の身体を束縛して一か所にとどまらせるものであるし、二人が首を吊ろうとする紐は、途中で切れることで、自殺から遠ざけ、共に前進することの可能性を示している。そして、ポッツォとラッキーをつなぐ紐は、第一幕では長く保たれているが、第二幕ではずっと短くなっている。ここでは、ラッキーが盲目になったポッツォの目となり、彼を導き支えている。そして、ヒエラルキーにより触れ合うことを許されなかった二人だが、身体的不自由さと短い紐のせいで、ぶつかり合い二人同時に床に倒れ込む。目の見えないポッツォは、エストラゴンとヴラジミールに助けを求めるが、同時にラッキーも倒れていることを聞かされると、「けがしてないか、見てやってくれんか。」とラッキーを心配する様子を見せる。ここで二人は、互いに不自由になったことで対等の関係に近づいている。そうとは言うものの、二人の間に温かいやりとりがなされるわけでも、相互理解や心の交流が生まれるわけでもない。先ほどの身体的な表現の多さとも重なるが、西村氏がヴラジミールとエストラゴンに見る「ヒューマニスティックな感情とは無縁の場で成り立つ連帯の可能性」[12]がここにも見られるのである。この作品の根底に「共生」という概念があることで、ただ暗く悲しい作品ではなく現在・未来に希望を見いだせるものになっているのだと思われる。

戦争から見る「共生」

 第一幕でポッツォが登場した際、「お二人とも、お目にかかれて実にうれしい。(信じかねるという二人の表情を見て)そうですとも、しんからうれしい。(後略)」や、「(前略)ごらんのとおり、わしは、長いこと同胞と交際せずにはおられんほうでね。(二人の同胞を眺め)たとい、それほどわしに似ておらん同胞でもだ。(後略)」というせりふや、立ち去ろうとしてもなかなか立ち去らない様子から、ヴラジミールとエストラゴンとの邂逅を喜んでいる様子が感じ取られる。戦争中、ルシヨンの村でナチ秘密警察の捜査が及ばないよう、ひっそりと息を殺して生活していたベケットにとっては、村でも細心の注意を払って人付き合いをしていたはずであるため、気を許せる仲間と話せる時間はどんなに心が落ち着いたことだろう。実際に、1944年6月6日に連合軍がノルマンディー上陸作戦を遂行し、ルシヨンに8月上旬に解放軍が到達した夜も、村がお祭り騒ぎで盛り上がる中、ベケットと妻のシュザンヌは、同じようにパリから逃げてきて友人となった画家のアンリ・エダン夫妻とともに静かに解放を祝ったという[13]

 食べ物の観点から見てみると、エストラゴンはいつもお腹を空かせており、ヴラジミールから大根や蕪を受け取ったり、ポッツォの食べた肉の骨をむさぼるように欲しがったりしている。そこから、食べ物の入手が非常に困難な状況にあることがうかがえる。戦時中や災害時といえば、誰もが自分の食糧を得ることに必死になる。2019年の10月に関東を直撃した台風19号の前日には、首都圏のスーパーマーケットやコンビニエンスストアから食料や日用品が消えてなくなるという事態が発生した。これも人間の欲によるもので、自分や身内さえ不自由のない生活ができればいいという排他的で自己中心的な考えが起こした行動によって引き起こされた現象であろう。増してや『ゴドー』の世界では、その程度はもっと深刻で、今現在の一食でさえも持ち合わせていない状況である。そんな中、ヴラジミールがエストラゴンに自分のなけなしの食糧を与える様子は、エストラゴンへの思いやりの心と、2人の友愛を感じ取ることができる。ここでの「共生」も現代の紛争、災害を機に人と人とのつながりや、人を思いやることの大切さを感じさせる作品として上演され続けている理由の一つではないだろうか。

 また、少し視点を変えて考えてみると、例えばポッツォとラッキーは戦時下または戦後の焼け野原になった道端で、偶然すれ違った敵国の人間であると考えることもできるのではないか。確かに『ゴドー』のテクストには、互いを人間であることは把握しているものの、ヴラジミールとエストラゴンは別の場所から来たとされるせりふがある。

ESTRAGON  (Vivement).  Nous ne sommes pas d’ici Monsieur.

POZZO  (s’arrêtant). Vous êtes bien des êtres humains cependant. (Il met

ses lunettes.) A ce que je vois. ( Il enlève ses lunettes.) De la même espèce que

moi. (Il éclate d’un rire énorme.) De la même espèce que POZZO ! D’origine

divine ! (Godot, ActeⅠ, p.35-36)

エストラゴン (勢いよく)実は、わたしたち、ここのものではないんで。

ポッツォ (立ち止まり)しかし、あんたがたは、たしかに人間だろう。(眼鏡

をかける)こう見たところ。(眼鏡をとって)わしと同じ種族だ。(爆笑する)

ポッツォと同種族か!神の子孫だな! 

(『ゴドー』、第一幕、p.34)

 そう考えると、ヴラジミールとエストラゴンを警戒し、「知らぬ人間が嫌い」なラッキーが、自分を慰めにハンカチを渡しに来たエストラゴンを蹴飛ばしたことも正当防衛だと言うことができる。先ほどの『メルシエとカミエ』同様、ここでも別の土地から来た者同士が互いに分かり合えない存在であることが前提となっている。この「わからなさ」は戦後、ベケットが働いていたサン・ローのアイルランド赤十字病院での実体験から来たものであると考えられる[14]。2600あった建物のうち2000が完全に消え去り、400が深刻なダメージを受け、わずかな損傷で済んだ建物は200だけだったという瓦礫の山と化したその町は「廃墟の都」と呼ばれていた。そこでは、フランス赤十字、アイルランド赤十字、地元の医療関係者の間で、不可解な緊張感があり、地元の医療関係者は、ベケットたちに対して明らかに冷淡で「物資は欲しいがアイルランド人は必要ない」といった態度だったという。ベケットはこれを「極めて理にかなった態度だ」と冷静に受け止め、この病院でボランティアとして懸命に働いた。ここで生じたフランス人とアイルランド人の間の軋轢は、文化の差異に加えて、「与えるものと与えられるもの」という非対称関係が成立してしまったことが原因だと考えられる。ベケットは、「わたしたち」という言葉を相手と共有していると思い込んでいたことがこの衝突が生じた原因であると考えた。つまり、互いを理解し合っていると思い込んでいても、本当はそうではないということを認めることに難しさがあったのである。相手のことを完全には理解できないという「わからなさ」を前提としながら外国で生きていくことを選んだベケット自身の体験が色濃く出ている考え方であると言える。ハンカチを渡して、「慰めようとするものと、慰められるもの」という非対称なエストラゴンとラッキーの関係性も、ベケット自身の実体験から来たものではないだろうか。しかし、相手がたとえその好意を好意として受け取らず、快く思わなかったとしても、困っている相手を助けたいという人間が純粋に持っている温かさこそがここで言う「共生関係」につながるのではないか。その結果、この四人は互いに体を支え合い、助け合いながら会話を展開していく。

 第二幕でポッツォは目が見えなくなり、ラッキーは口が利けなくなるが、ここには、先ほど述べた「身体の不自由さ・老い」の他に、「戦争」の方面から考えることもできるだろう。例えば、第二次世界大戦で長崎と広島に投下された原子爆弾によって、一瞬のうちに多くの命が奪われた。毎日のように空襲のサイレンが鳴り響くような状況の中で、明日まで生き延びられるという保証さえもない、非常に不確かな世界で生きていることを戦時中多くの人々が味わったはずだ。これはまた、阪神淡路大震災や、東日本大震災を例にとっても同じ事が言えるだろう。ここでも、『ゴドー』が「普遍化」されたことによって、さまざま文脈に当てはめることができることの証明になる。

時間・空間・記憶

  続いて「時間・空間・記憶」に焦点を絞って考えていきたい。『ゴドー』は「現代演劇の祖」といわれている。それは、先述のように、従来のフランス演劇とは異なる様相を呈しているからである。同時代に発表された他の作品と比べてみても、「劇的な展開」がなく、そもそも物語らしい物語が展開されず、時間も場所も明確な設定がない『ゴドー』はやはり異質な作品であったと言える。ここでは、『ゴドー』の「時間」「場所」「筋」それぞれに焦点を当てて考え、さらにそれら三つに関連する記憶の問題についても触れていく。

 時間については、第二幕が一幕の翌日という設定になってはいるが、実際のところは定かではない。例えば、第一幕では枯れていた舞台上の木が、二幕では緑色の葉に覆われているし、ヴラジミールは前日のことを覚えているが、エストラゴンは、何も覚えていない。夜はいつくるのかと待ちわびていると一瞬のうちに暗くなる。とりわけ第二幕でポッツォが急に激怒して叫ぶせりふがベケットのこの劇における時間のとらえ方をよく表している。

 POZZO  (soudain furieux). Vous n’avez pas fini de m’empoisonner avec vos

 histoires de temps ? C’est insensé ! Quand ! Quand ! Un jour, ça ne vous

souffit pas, un jour pareil aux autres, il est devenu muet, un jour je suis

devenu aveugle, un jour nous deviendrons sourds, un jour nous sommes

nés, un jour nous mourrons, le même jour, le même instant, ça ne vous suff-

it pas ? (Godot, ActeⅡ, p.154)

ポッツォ (急に激怒して)いいかげんにやめてもらおう、時間のことをなんだ

かんだ言うのは。ばかげとる、全く。いつだ!いつだ!ある日でいけないのかね。

ほかの日と同じようなある日、あいつは唖になった。わしは盲になった。そのうち、

ある日、わしたちは聾になるかもしれん。ある日、生まれた。ある日、死ぬだろう。

同じある日、同じある時、それではいかんのかね?

(後略)(『ゴドー』、第二幕、p.162)

 ここから『ゴドー』では時間の観念自体が無意味であることがわかる。それは先述のように、戦時中や災害時、いつ何が起こるか想定できない状況では具体的に「いつ」だったかということは、もはやあまり重要ではないと考えることもできる。また、身体の老いによって時間の感覚に疎くなることもまた登場人物たちの老いの程度を考えればあり得ることである。そして、時間が定かではないことによって、それだけ演出の自由が利くことも確かである。

 続いては場所であるが、ブルジョワ階級の居間が舞台だった近代の演劇的伝統を壊し、「田舎道。一本の木。」というのがこの作品に与えられた唯一の舞台設定である。この設定こそが『ゴドー』が今日でも形を変えて上演され続ける上で重要なポイントになっていると考えられる。無限の想像力を働かせて、様々な舞台に作り替えることが可能であるだろう。例えばそれは、戦争で焼け野原になった場所にもなりうるし、地震や台風で壊滅的な被害を受けた場所にもなりうる。そこがフランスと言われようが、アメリカと言われようが、増して、日本と言われようが、何の苦労もなくすんなりと受け入れられることがこの舞台の特徴であろう。いずれにしても、荒涼としていて、暗く殺風景で、もの悲しい雰囲気を帯びた舞台設定が実際の演出でも大多数を占める。この「戦争・災害」といった事柄は、世界の各地で絶えず起こり続け、人々の心に大きな傷を負わせるものである。だからこそ、演劇のテーマとして時代を超えて扱われ続けているのであろう。『ゴドーを待ちながら』がベケットの戦争体験をもとにつくられた上に、ことごとく場所に関する記述を省いたことによって、現代になっても世界中で上演され続ける作品になり得たことは明らかである。

 そして最後に行動あるいは筋についてであるが、1-1.で先述した通り、一幕も二幕もほとんど同じ内容の繰り返しであり、確固とした話の筋も存在せず、決定的な結末もない。第二章は一幕と同じ人物が登場し、細かい点に違いがあるにせよ、大枠としては同じことの繰り返しをするだけである。この点について、スーザン・ソンタグは、「劇文学の中で第一幕自体が一つの劇として完結しているのは、唯一この作品だけかもしれない」[15]と述べていることからも、この作品の筋における特殊性は明らかである。

 次に、この3点すべてとかかわる「記憶」の問題についても考えていきたい[16]。ヴラジミールが第二幕で「きのう」だと言っている第一幕は、健忘症のエストラゴンや、ポッツォ、ラッキーがそれぞれ、目が見えず、口が利けなくなってしまったこと、さらに、少年はきのう来た少年と別人だということを受けて、記憶の不確かさが露見している。ベケットは台本の第二幕の冒頭にわざわざ「翌日。同じ時間。同じ場所。」と記載しており、観客も一番記憶がしっかりしていそうなヴラジミールの証言を信じて観劇をすすめていくはずだが、その期待はことごとく裏切られる。記憶は人それぞれ異なるものであり、不確かなものである。それゆえ、同じ場所で同じ出来事を経験していたとしても、見方、感じ方によって、記憶に差異が生じるのは当然である。まさに記憶の産物と言える「歴史」も、実際にどこまで事実に忠実であるかは、今となっては知る由もない。『ゴドー』でベケットは「歴史」を批判しているわけではないが、その「歴史」を紡ぎだしている人間の「記憶」の不確かさに触れている。

 このように分析してみると、以下の点が『ゴドー』の今日でも根強い人気を誇り、上演され続けている理由に大きくかかわっていることがわかる。すなわち、従来の演劇の伝統を無視した全く新しい構造を持ち、場所も時間も定かでないことによって、時代や国を超えて機能する「普遍性」を持っている点である。

さまざまな演出と『ゴドー』の現代性

 最後に、世界中で形を変え、言語を変えて数多く上演されてきた『ゴドーを待ちながら』のいくつかの演出を取り上げて分析し、その特徴や共通点・類似点を考察することで、この作品の現代性を明らかにしていきたい。具体的には、1993年の10月にボスニアヘルツェゴビナ戦争のさなかにサラエボで上演されたスーザン・ソンタグ演出の『ゴドー』。そして日本の東日本大震災の直後に上演された2つの『ゴドー』。最後に2018年に岡室美奈子氏の新訳発表を機に上演が決まり、2019年に上演された多田淳之介氏演出の『ゴドー』を取り上げて検討していく。

サラエボでの『ゴドー』

 まずはスーザン・ソンタグの演出による『ゴドー』について見ていきたい。彼女は、サラエボで起こっていた悲惨な戦争状況に強く心をひかれ、そこに一定期間留まり、自分が何かの形で貢献したいと考えていた。そこで演劇を上演することに決めたわけであるが、中でも『ゴドー』を上演することは、一瞬のうちに頭に浮かび、サラエボのために書かれたとしか思えないこの作品を今こそ上演すべきだと、決定に至ったという[17]

 しかしながら、紛争の下での上演は非常に困難を伴うものであった。常に爆撃の危険にさらされた街では、通りを歩くことさえ困難な状況であり、通りに物資の供給を取りに行くことも、爆撃の恐怖から足が遠のく人も多かったという。それは俳優たちにとっても例外ではなく、上演にあたって、最大の障害となったのは、俳優たちが栄養不足によってすっかり疲労しきってしまっていたことだ。例えばラッキー役のアトコは、リハーサル中、空っぽのスーツケースを長時間持っていることに耐えられず、時折床におろしてもいいかと尋ねたと記されている。そして彼らはソンタグが一緒に仕事をしてきたどんな俳優たちよりもせりふを覚えることが遅かったという。幕開けの10日前になっても台本の確認を必要とし、本稽古の前日になるまでせりふの暗記が完了しなかった。稽古はたった一本のろうそくの明かりの下で行われ、本番も10本のろうそくに照らされた舞台で行われた。ベケットの作品は俳優にとっても身体の自由を奪われ、不条理であることが多く、それは後半の作品で特に顕著であるが、このサラエボという土地は、おかれている状況も役者たちの心理状況も、登場人物たちと重なり、よりリアリティのある劇に仕上がったことだろう。

 また、この演出では、それぞれ特徴を持ったヴラジミールとエストラゴンのペアが3組登場する。舞台中央に男性二人、左手に女性二人、そして右手に男女二人のペアを配置することで、作品が持つ「カップル」のテーマを同時に異なる3つのヴァリエーションで見せたのである。また、ポッツォを演じたパソヴィッチは、がっしりとした年配の女性で、他のどの俳優よりも早く、ソンタグが心に決めていた配役だった。独裁者や暴君を思わせるようなポッツォの態度には、やはり堂々としていて威厳のある見た目の俳優が演じることが適切であるのではないか。

 なお、この演出が行われる前に、ベオグラードで全員女性の『ゴドー』が上演されたそうだ。時間・空間・物語の筋、いずれも抽象的なこの作品では、登場人物がたとえ全員女性であっても上演が成り立ってしまう、ジェンダーを黙殺することが意味を成す数少ない劇である。このとき、ソンタグがポッツォ役に女性を配置したのも、「女性も暴君になり得る」からではなく、「女性も暴君の役割を演じ得る」[18]ことを主張したかったという。

 そして、もう一つ注目すべき点は、ここでは『ゴドー』の第一幕のみが上演されたことである。先述のように、『ゴドー』は第一幕のみでも演劇として成り立つほとんど唯一の作品である。ここで第一幕のみの上演に決めたのは、三つのペアでヴラジミールとエストラゴンを演じることにより、通常より時間が大幅にかかることが理由だったそうであるが、ソンタグは後に、第二幕は一幕のリプレイでありながら、すべてが悪化していることから、あえて二度目にゴドーが現れない部分を省略し、「サブリミナルな部分では、第二幕は別のかたちになり得たのではと提唱したいと思ったのかもしれない。」[19]と振り返っている。演出家の意図は個別にあるにせよ、『ゴドー』という作品は、その構造の特異性から、解釈のみならず上演方法にも幅を持たせることが可能であることを示す一例であろう。

東日本大震災と『ゴドー』

 続いて2011年3月11日の東日本大震災の影響を受け、どのような『ゴドー』が上演されてきたのかを考察する。

 まずは、2011年4月と、震災のわずか一か月後に、新国立劇場で上演された『ゴドー』について見ていきたい[20]。この上演自体は震災前から計画されていたものであったが、多くの作品が公演を自粛する中で予定通り行われ、観る者に震災後の状況とこの劇を強く結び付けさせるものになった。称賛であれ批判であれ、震災と関連付けたコメントが多く見られた。例えば、菅孝行は『テアトロ』2011年7月号において、「地震と津波と原発損壊の一か月後の上演だというのに、その事態を受け止めようとする感度が全く見られなかった」と批判している[21]。これも逆説的ではあるが、震災と関連付けたコメントだと言える。舞台芸術家の故・磯沼陽子氏による舞台演出はむき出しの地球の表面のようであり、それは否応なしに津波ですべてをさらわれた土地に見えたし、一本の木からは、岩手県陸前高田市の奇跡の一本松をも想起させられた。また、舞台の光で仄明るく照らされた客席の観客たち、とりわけ二階席の観客たちは、さながら亡霊のように見え、ヴラジミールとエストラゴンが死者たちの声に耳を澄ます場面にはかつてないほどのリアリティが感じられた。

 そして『ゴドー』自体を「死者との共生」の作品であると捉えることもでき、特にこの演出ではそれが浮き彫りになっている。ヴラジミールとエストラゴンが死んだ声を聴くまいとしつつもつい聞いてしまう。大勢の死者たちは、死んでもなお亡霊のようにそこに存在しているのであるが、ここでは二人が死者たちのことを考えてしまったためにその声が聞こえたのである。ここでは生と死が断絶されることなく連続するものとして捉えられている。二人は自殺をしようとするが、紐が切れることによって生の方向へ向かい、生き続けることができる。しかし、それでも想像力によって死者と繋がり、共に生きていくのである。東日本大震災後、死はもはや生から切り離されたものと考えられなくなっているのではないか。それよりもむしろ、死者を身近に感じながらいかに生を歩んでいくかがこれからの課題であると考えられる。実際、震災後に故人との再会体験が数多く報告されており、NHKで特集番組も組まれたほどだ。さらに、震災後に亡霊が登場するテレビドラマが増えたこともそのことと無縁ではない。例えば2011年秋クールにテレビ朝日系列で放送された宮藤官九郎脚本による『11人もいる!』や、2011年度下半期にNHKで放送された渡辺あや脚本の『カーネーション』などが挙げられる。いずれの幽霊も決して人を驚かす恐ろしいものではなく、少し離れたところから家族を見守り、家族と共に生きる者たちとして描かれている。ベケットの晩年のテレビドラマ『……雲のように……』では、男は夜ごと聖域と呼ばれる部屋で降霊術のようにある女を招喚しようと念じている。その女は死んだ恋人らしい。あるいは死んでいるのは男の方かもしれない。そして、1000回に1回ほどの割合で女は顕現する。女はイェイツの詩「塔」を口にするが声はほとんど聞こえない。男はその女の唇の動きに合わせて同じ詩句を声に出してつぶやく。直接言葉は交わさなくとも、この瞬間2人はイェイツの美しい詩句を通して、確実に何かを共有し、繋がっている。それは2人にしかわからない思い出かもしれないが、ただその瞬間の美しさに私たちは胸を突かれるのである。

 ベケットは『ゴドー』以来、一貫して生と死を超えた共生の可能性とそのための想像力を描いていたように思われる。だからこそ、ベケットを必要としているのだと考えられるのだろう。

 さて、もう一つ東日本大震災をきっかけに上演された『ゴドー』を取り上げたい。2011年8月6日に東京で活動する劇団「かもめマシーン」によって、福島第一原子力発電所からわずか20.5キロメートルの路上で上演された『ゴドー』である。この舞台では、震災によって崩れ落ちた片側二車線の道路を背景に、3人の俳優が特に何をすることもなく佇み、時折『ゴドーを待ちながら』のせりふを口にする。俳優たちは、みすぼらしい恰好をした老人たちではなく、普段着のどこにでもいるような若者であり、今まで経験したことのない大震災を受けて、どうしたらよいか分からない、戸惑いの様子が見られる[22]。しかしここでも、希望を失って、立ちつくすだけではない何かがあると感じられる。それはその土地に対する「愛情」である。どんなに姿を変えようが、自分が生まれ育った土地を離れることはできない、何かを待ち続けていながら同時に、ここで生きていこうという決意の表れととらえることも可能であろう。ベケット自身も永世中立国の国籍を持ちながら、わざわざ戦時下のフランスに身を置いていた。そこにはフランスで生きてくと覚悟したベケットの中に、少なからずフランスという土地への「愛情」があったからではないだろうか。

実際、ベケットは1948年1月4日付で次のような文面の手紙を友人のトム・マグリーヴィに送っている。フランスのニュースはとても気がめいるものばかりで、どうも気が沈みます。何もかもがまちがっているし、まちがった方向に動いています。かつてみんなが執着していたフランスを感じることがときにむずかしいのですが、私はまだそんなフランスにしがみついています。物質的な状況のことを言っているのではありません。物質的な状況には愕然としますが[23]

 この手紙は、ベケットがフランスの戦後の政治体制に対する不満を友人に漏らしたものであるが、そんな不満を持ちながらも、やはりフランスで生きることを選び、作家としての活動を続けるベケットのフランスに対する強い思い入れが感じられる。

 また、先ほどのサラエボでの演出を手掛けたソンタグも、ポッツォ役のパソヴィッチが、「昔はここがどんなところだったか想像もつかないでしょう。」「パラダイスでしたよ。」[24]と述べていたと語る。サラエボはかつて多くの市民から理想の都市とみなされてきた。しかし、戦争を経て盗みや強盗の増加、無法行為の横行などにより、かつてと比べ、失望せざるを得ない姿になってしまった。それでもなおソンタグは、そんな市民、街であっても許してもよいのではないかと思うと語る[25]。ここにも、サラエボという土地に対する「愛」を感じることができる。

 『ゴドー』は、紛争・災害・ハリケーンなどが起こるたびに上演されてきた。『ゴドー』が「今、ここで」上演されることに意味があると思わせるのは、やって来ないかもしれないゴドーを「ここ」で待ち続けることを選んだ主人公たちの姿に観客たちが自分自身を重ねるからである。それぞれの演出で想起される「ここ」に対する愛情を持ち続け、離れるわけにはいかず、やはり「ここ」で生きていくことを選ぶ決意につながっていると考えることができるだろう。

新訳誕生による『ゴドー』

 最後に2019年に上演された多田淳之介演出の『ゴドー』を見ていく。この場合も、『ゴドー』の上演を意識したのは、やはり東日本大震災がきっかけだった[26]。首まで土に埋もれても今日も幸せな一日が始まると話す女性(『しあわせな日々』)、大きな壺から顔を出して、永遠と痴話喧嘩を続ける男女(『芝居』)、本当に来るかどうかわからないものを待ち続ける二人の老人(『ゴドー』)、といったベケットの作品の登場人物たちが、多田氏には私たち日本人の姿にしか見えなかったという。そんな中、2018年に岡室美奈子氏によって『ゴドー』の新訳が発表されたことが、今回の上演を決定づけた。この演出は、「昭和・平成ver.」と「令和ver.」という二つのヴァージョンが上演され、ヴラジミールとエストラゴンを演じる俳優も、昭和・平成ver.では60代であり、令和ver.では30代となっている。今回は主に「昭和・平成ver.」の演出について詳しく述べていきたいと思う。

 舞台は円形状で中央が数段の階段によって高くなっている。その周りを囲むように客席があり、一本の木、壊れた自動販売機、ミラーボールのように光る忠犬ハチ公像が間隔を空けて舞台の外側に置かれている。上演開始時間になるとエストラゴンがどこからともなく現れて、独り言をつぶやいたり、観客に話しかけたりしながら、靴を脱ぐ作業にとりかかる。劇全体を通して、役者と観客の距離が非常に近く、『ゴドー』の世界は決してかけ離れた場所ではなく、身近に存在する「現実」であると捉えることができる舞台である。

 作品との距離の近さ、すなわち『ゴドー』が身近に感じられたのは、新訳を用いたこととも関連しているだろう。1967年に安堂信也氏と高橋康也氏による共訳が出版されているが、この翻訳と異なり、新訳は簡潔な表現が多く、戯曲自体もとても読みやすい。例えば、冒頭の部分を比べてみると、

(1967年版) 

エストラゴン (またあきらめて)どうにもならん。

ヴラジミール (がに股で、ぎくしゃくと、小刻みな足取りで近づきながら)いや、そうかもしれん。(じっと立ち止まる)そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、ながいこと自分に言いきかせてきたんだ。ヴラジミール、まあ考えてみろ、まだなにもかもやってみたわけじゃない。で…また戦い始めた。(戦いのことを思いながら、瞑想にふける。エストラゴンに)やあ、おまえ、またいるな、そこに。

(2018年版)

エストラゴン (また投げ出して)なにやってもダメ。

ウラジミール (硬直した小刻みな足取り、がに股で前に出ながら)わたしもそういう見解に傾いてきました。生まれてからずーっと、そうならないように頑張ってきたんですけどね。「ウラジミール、おまえはまだ全部やってみたわけじゃないだろ」って。悪あがきの繰り返しってやつです。(闘いに思いを馳せながら考え込む。エストラゴンのほうを向いて)で、またおまえかよ[27]

 このように一部分だけを比べてみても、かなり大きな差があることは明らかである。旧訳の方は、老人らしい言葉づかいで書かれており、動作の指示やせりふの言い回しも少し回りくどく、抽象的な表現が多く見られる。一方、新訳は岡室氏が旧訳の抽象的・概念的な表現に着目して、あえてそういった表現を避けた具体的でわかりやすい訳となっている。その背景には、日本における『ゴドー』の受容が大きく関わっているという。つまり、20世紀には、『ゴドー』は「不条理劇」の代名詞と言われ、難解で意味のつかめない劇だというイメージがあった。しかし、21世紀になってそれが「わかる」劇に変わってきたのだという[28]。それは、東日本大震災や無差別殺人事件によるやり場のない怒りや悲しみ、努力しても報われない格差社会や、自分の生きている価値を感じられずに引きこもる、など人が各々不条理を抱えながら、毎日を生きていることを実感させられる出来事があまりにも多く起こっているからではないか。『ゴドー』が決して遠く離れた場所やはるか昔のものではなくて、今ここに自分たちの劇として存在し、不条理が身近なものになったからだと岡室氏は指摘する。そこで、具体的な表現を使い、老人らしい言葉づかいもせず、より普遍的に受け入れられるような訳が生み出された。今回の上演ではこの翻訳を用い、さらに時代の節目となる元号の改元を伴い、昭和・平成と令和での「待つ」ことの感覚や意味の違いを明らかにしたかったという。

 作品の中で、特に「昭和・平成」を意識したと思われる部分がある。例えば、突然、爆撃音が大きく響き、ヴラジミールとエストラゴンが物陰に隠れようとする場面があるが、これは空襲に見舞われる第二次世界大戦時の東京を思わせる。そして、第一幕と二幕の間には昭和のヒット曲であるYELLOW MAGIC ORCHESTRAの「RYDEEN」が流れ、真っ暗な舞台にハチ公像だけがミラーボールのように光り、バブル時代のディスコを想起させる。その後、第二幕が始まると、床には羽のついた派手な色の扇子や片足だけのミュールが落ちており、もの悲しい舞台の情景と重なって、まるでバブルの崩壊を思わせる。平成という現在(上演当時は令和に元号が変わってわずか一ヶ月だった)を感じさせつつも、昭和の出来事や雰囲気をより強く意識させる演出であった。

 この『ゴドー』が上演されたKAAT神奈川芸術劇場では、これまでも近・現代戯曲を現代の視点で再読する企画を進めているが[29]、この舞台もその企画の一つであった。『ゴドー』が、いま、ここで、そして私たちに近しいものとして上演されることで、人々に戦争や災害、道理の通らない物事への憤りの中で人と人との関係から生まれる共生の想いや、辛いけれどもう少し生きてみようという希望が芽生えることは、少なからずあるだろう。それが、この作品が現在も上演され続ける意味なのではないか。

最後に

 本論では、誕生から70年経った現在でも世界中で上演され続ける『ゴドーを待ちながら』の再演の所以と現代性に焦点を当てて考察してきた。第一章で述べたベケットの人生、とりわけ第二次世界大戦の経験が『ゴドー』の創作に大きく関わっていることは明白である。しかしながら、草稿を重ねるうちに、フランス語から英語に翻訳する過程で、さらには舞台演出をする際に、ベケット本人も新たなイメージを追加し、常に作品を変容させ、更新させていった。それらの過程によって、『ゴドー』がより「普遍化」され、あらゆる場面にぴったりと合致する不朽の作品へと変化を遂げたことが上演され続ける最大の由縁であると考えられる。

 残念ながら現在でも世界に目を向けてみると、紛争、貧困、災害などの問題が後を絶たない。これらの問題を解決することが一番に求められることではあるが、その中で演劇が、こりわけ、この『ゴドー』という作品が果たせる役割がきっとあるはずだ。それは、人々の傷ついた心にそっと寄り添い、その悲しみに共鳴することかもしれないし、観客が作品のどこかから希望を見いだすことで、明日へと向かっていく勇気を与えることかもしれない。たとえ同じ災害を経験し、同じ舞台を観たとしても、観客それぞれの経験に変換されることで、感じ方は様々。観客自身が『ゴドー』を自分の作品として捉え、少しでも前向きになれるような手助けをすることがその役割なのではないだろうか。これからも「変容」しながら上演され続ける。

【参考文献】

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』ベスト・オブ・ベケットⅠ(安堂信也・高橋康也訳)白水社 (1990)

サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』新訳ベケット戯曲全集1(岡室美奈子訳)白水社 (2018)

Samuel Beckett, En attendant Godot, Paris, Les éditions de minuit, 1952.

堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』演出家としてのベケット」 藤原書店(2017)

岡室美奈子「死者との共生―危機の時代のベケット」『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』早稲田大学演劇博物館(2014)

岡室美奈子「日本のベケット―主観的受容史」『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』早稲田大学演劇博物館(2014)

菊池慶子「戦争と「外国」体験―ルポルタージュ「廃墟の都」『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』早稲田大学演劇博物館(2014)

山崎健太「また始めるために―3.11以降の日本の現代演劇」『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』早稲田大学演劇博物館(2014

久米宗隆「ベケットの演劇作品はどのように上演されてきたのか?」『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』早稲田大学演劇博物館(2014)

スーザン・ソンタグ『サラエボで、ゴドーを待ちながら』(富山太佳夫訳)みすず書房(2012)

ディアドリィ・ベァ『サミュエル・ベケット ある伝記』(五十嵐賢一訳)三元社(2009)

岡室美奈子、川島健、長島確編『サミュエル・ベケット!―これからの批評』水声社(2012)

ジェイムス・ノウルソン『ベケット伝』上巻・下巻 白水社(2003)

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ゴドーを待ちながら』公演パンフレット(2019年6月12日~23日上演)


[1] この節に関しては、主として堀真理子『改定を重ねる『ゴドーを待ちながら』演出家としてのベケット』藤原書店、2017年、p.196-220を参照した。

[2]『ゴドーを待ちながら』からの引用はすべて以下の版を参照。Samuel Beckett, En attendant Godot, Paris, Les éditions de minuit, 1952.  邦訳:サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』ベスト・オブ・ベケットⅠ(安堂信也・高橋康也訳)、白水社、1990年。

[3] 堀真理子、前掲書、p.22。

[4] この節に関しては、菊池慶子「戦争と「外国」体験―ルポルタージュ「廃墟の都」」、『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』 早稲田大学演劇博物館 、2014年、堀真理子、前掲書、 p.25-38を参照した。

[5] 堀真理子、前掲書、p.197-198。

[6] 西村和泉「結びのパラドクス―『ゴドーを待ちながら』における執筆の軌跡をめぐって」、『サミュエル・ベケット!―これからの批評』水声社、2012年、p.29 参照。

[7] ジェイムス・ノウルソン『ベケット伝』下巻 白水社、2003年、p.41。

[8] この節は、堀真理子、前掲書、 p.204-206を参照した。

[9] この節は、堀真理子、前掲書、p.221-225、久米宗隆「ベケットの演劇作品はどのように上演されてきたのか?」、前掲『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』 を参照した。

[10] 菊池慶子、前掲「戦争と「外国」体験―ルポルタージュ「廃墟の都」」参照。

[11] この節は、岡室美奈子「死者との共生―危機の時代のベケット」、前掲『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』を参照した。

[12] 西村和泉、前掲「結びのパラドクス―『ゴドーを待ちながら』における執筆の軌跡をめぐって」、p.46。

[13] 菊池慶子、前掲「戦争と「外国」体験―ルポルタージュ「廃墟の都」、『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』参照。

[14] この節は、菊池慶子、前掲「戦争と「外国」体験―ルポルタージュ「廃墟の都」」、『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』参照。

[15] スーザン・ソンタグ『サラエボで、ゴドーを待ちながら』(富山太佳夫訳)みすず書房、2012年、 p.239。

[16] この節は、堀真理子、前掲書、p.189-196を参照した。

[17] この節は、スーザン・ソンタグ、前掲書、p.217-255、岡室美奈子「死者との共生―危機の時代のベケット」、前掲『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』を参照した。

[18] スーザン・ソンタグ、前掲書、p.227。

[19] スーザン・ソンタグ、前掲書、 p.240。

[20] この節は、主として岡室美奈子、前掲「死者との共生―危機の時代のベケット」を参照した。

[21] この批判は以下の論考の注で引用されている。岡室美奈子、前掲「死者との共生―危機の時代のベケット」。

[22] 山崎健太「また始めるために―3.11以降の日本の現代演劇」、前掲『サミュエル・ベケット ドアはわからないくらいに開いている』 参照。

[23] 堀真理子、前掲書、p.216。

[24] スーザン・ソンタグ、前掲書、p.245。

[25] 同上。

[26] この節は、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ゴドーを待ちながら』公演パンフレット(2019年6月12日~23日上演)多田淳之介の「私たちの時代の「ゴドー」」を参照した。

[27] サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』新訳ベケット戯曲全集1(岡室美奈子訳)白水社、2018、p.13-14。

[28] この節は、KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ゴドーを待ちながら』公演パンフレット(2019年6月12日~23日上演)岡室美奈子の「わかる『ゴドー』を目指して―新訳について」を参照した。

[29] KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『ゴドーを待ちながら』公演パンフレット(2019年6月12日~23日上演)KAAT神奈川芸術劇場芸術監督の白井晃の挨拶。

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