【レポート】サミュエル・ベケット『しあわせな日々』

【レポート】サミュエル・ベケット:しあわせな日々

はじめに

 本稿では、サミュエル・ベケットの戯曲『しあわせな日々』における登場人物、ウィニーとウィリーの相違点に着目する。「光と闇」、「生と死」といった対立する概念上に立つ2人は、その言動において異なる方向性を持つ。

『しあわせな日々』について

生と死の対比

 『しあわせな日々』には、焼けただれた草原の円丘で、腰まで土に埋もれている50歳前後の女性ウィニーと、その夫で60歳前後のウィリーの2人が登場する。劇中の台詞のほとんどがウィニーのものであり、ウィニーはウィリーに話しかけるが、ウィリーが返答することは極めて稀である。それどころか、ウィリーは終始穴に入っており、ほとんど舞台の上に姿を現すことがない。第2幕になると、ウィニーは首まで土に埋もれ、いよいよ身動きが取れなくなる。一方のウィリーの口数も、第1幕にも増して少なくなり、2人とも着実に死へと向かっている。そうした中でどのように日々を過ごすか、ということに焦点を当てた作品である。

 2人は、いずれも自らの人生があまり長く残されていないことを理解しているように見える。第1幕では腰から下が埋まっていたウィニーが、第2幕で首から下が埋まってしまっているのは、ウィニーに死が迫っていることを視覚的に表現している。しかしながら、ウィニーは発話が可能である一方で、ウィリーはほとんど口もきけないことから、ウィリーの方がより死に近いと推測できる。この2人は同様に死へ向かっているのであるが、残りの人生に対する捉え方が大きく異なっている。端的に言えば、ウィニーは残された人生の光の部分を見つめ、反対にウィリーは闇を見つめている。その例として以下のような場面がある:

(新聞記事を見ながら)ウィリー「神学博士にして司祭カルロス・ハンター尊師、入浴中に逝去。」安堂信也・高橋康也訳『しあわせな日々』

というウィリーの台詞を受け、ウィニーはその人物名から過去の記憶を想起し、その後しばらくノスタルジーに浸っている。入浴中に逝去したというアイロニーにもかかわらず、ウィニーは死については触れずに、懐かしく幸福な過去に思いを馳せている。ここに、人生の明るい面を見ようとする彼女の思考傾向が現れている。一方でウィリーは、数ある新聞記事の中でこの記事に注目し、わざわざ音読までしていることから、死に対する関心が高いと読み取れる。

《きみを愛す》の異化

 さらに生と死について顕著なのは、『メリー・ウィドウ』の二重唱ワルツ《きみを愛す》を用いた対比である。この楽曲は劇中で2回使用される。まず、第1幕の中盤でウィニーが袋からオルゴールを取り出して《きみを愛す》が演奏される。オルゴールの停止後、ウィリーが楽曲の節をしゃがれ声で短く唸る。美しいメロディーと歌詞を持つ楽曲は、ここで一度、ウィリーのしゃがれ声で絶望的なものとして歪められ、異化される。そして《きみを愛す》はもう一度、第2幕の終盤でウィニーによって歌われる。この歌唱は、本来の歌詞や曲の持つ雰囲気が毀損されることなく、美しく感動的である。

不安の支配

 続いて、2人の身体的動作や台詞に注目したい。ウィリーは姿を現してもまたすぐに穴(子宮や墓の暗喩であるといえる)へ戻ってしまうが、ウィニーは

「押さえつけられてなかったら、からだがぽいと青空へ浮かび上がっちゃいそうな、そんな感じがますますしてくる。」

という台詞の通り、土に埋もれながらも、上へ、空へと動こうとする身体を感じている。ここからも、それぞれの持つベクトルが正反対であると読み取れる。

 しかしながら、ウィニーも時おり言葉やものに見放される不安に襲われている。

「(前略)そして日によっては、あまりに心配が...お休みのベルが鳴る前に、ゆきづまって、何時間ももてあまして、なんにもいうこともすることもなくなっちゃうんじゃないかって、そういう心配があまりにも強くて...(後略)」

といったように、不安を吐露する場面もしばしば見受けられる。その傾向は第2幕になると一層強くなり、口数は増加しているにもかかわらず、不安は倍増し、だんだんと無に向かっていることを匂わせる。

 一方で、ウィリーもただ死に向かおうとしているわけではない。第1幕の終盤と第2幕の終盤で、ウィリーは穴から出て四つん這いで移動する。とりわけ第2幕の終盤では、ウィニーの方へ這って進み、ウィニーと夫婦としてともに生きていることを実感し何かしらの愛情表現をしようとしている、という見方もできる。

自殺

 『しあわせな日々』において、自殺は作品のキーとなる概念であり、それを示唆する拳銃の存在は非常に重要である。第1幕では、ウィニーは拳銃を愛で、あるいは嫌う。しかし第2幕になると、首まで地中に埋まってしまい、拳銃の使用が困難になる。そして、上述したラストシーン(ウィリーがウィニーの方へと向かう)でも、ウィニーのそばには拳銃が置かれており、それに向かってウィリーが這ってきていると解釈することも可能である。自殺は魅力的なものであると同時に、自らの手では実現不可能なものでもある。自殺をしないことは、生命を全うしようという意思表示であると解釈することもできる。またしかし、自殺をすることもできない、ただ死に絶えるまで苦しみ続けなければならないという絶望的な見方も可能である。ウィニーも死に対する憧れを抱いていると窺える台詞も見受けられる:

「例の日がやってくるのを待つだけ(中略)あのしあわせな日がやってくるのを。」

【参考文献】

井上善幸・近藤耕人『サミュエル・ベケットと批評の遠近法』未知谷(2016)

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