【レポート】モリエール『ドン・ジュアン』

【レポート】モリエール『ドン・ジュアン』

 今回、モリエールの『ドン・ジュアン』の構成に焦点を当てていく。

『ドン・ジュアン』という題名の劇はモリエール以外にも幾つか存在するにもかかわらず、なぜモリエールの『ドン・ジュアン』は現代でも有名で、親しまれているのかと疑問を持った。「何か他とは異なる良さがあるからなのだろう」と推察する。

作品の内容

 ドン・ジュアンは第一幕で修道女であった妻ドンヌ・エルヴィールに飽き、新しい恋をするためにスガナレルを連れて旅に出る。第二幕の旅先では田舎娘のシャルロットとマチュリーヌに言い寄るが、12人の騎士がドン・ジュアンを追ってきていることが判明する。第三幕では森に迷い、貧者に道を聞きますがそのお礼に施しを与えようとせず、今度は追い剥ぎに会っている貴族を助けに行く。その後、以前ドン・ジュアンが殺した騎士の墓にたどり着き、その騎士の石像を晩餐に誘ったところ石像はうなずく。第四幕ではドン・ジュアンの部屋に商人のディマンシュ氏や父のドン・ルイ、ドンヌ・エルヴィールが登場し、放蕩を改めるように説得するが、全て聞き流してしまう。そして、晩餐に招待された石像がやってきて、今度はドン・ジュアンを晩餐に誘い、ドン・ジュアンは承諾する。第五幕で、ドン・ジュアンは父親に改宗を誓うがそれは見せかけで、偽善者を装うようになり、亡霊が現れ、悔恨するように説得するがあっさり断る。最後に石像が現れ、ドン・ジュアンの手を握ると、ドン・ジュアンの体に雷が落ちて死亡する。残されたスガナレルは「俺の給料!」と一人で嘆く、という物語だ。

着目した点

 今回注目したのは、三一致の法則がことごとく守られていない点だ。古典劇全盛期であったこの時代は、三一致の法則が忠実に守られていた。その時代において、モリエールのドン・ジュアンは場、時、筋のいずれにおいても守られていない。

 まず場の面では、第一幕はドン・ジュアンの屋敷、第二幕は海辺の田舎、第三幕は森の中、第四幕はドン・ジュアンの部屋、最終幕は郊外とばらばら。

 また時の面でも、できるならば朝から夕方までの12時間で物語が完結することが求められるが上の場の移動から見ると、どう考えても一日のうちに起こったこととは思えない。さらに筋の面からみても、第一幕はドーヌ・エルヴィールとの愛の葛藤、第二幕では田舎娘たちとの恋愛、この先も恋愛をテーマとして話が進んで行くのかと思いきや、その後はこのテーマは扱われず、神への信仰が話題の中心になっており、まるでレビュー的に様々な面を見せている。

 このように三一致の法則が破られていることは、ドン・ジュアンの人物像ととても深い関係がある。ドン・ジュアンはまるで何人かの人物の性格を一つにまとめあげたかの様に、劇の中であらゆる性質を見せている。単なる女たらしかと思えば、追い剥ぎに襲われている人を助けに行く勇敢さもあり、無神論者であり、偽善者であるけれども、動く石像には身じろぎもしない胆の座ったところもある。一人の人物のこれほど多くの側面を限られた時間の中で見せる為には、場面や設定を変えて様々な状況に人物を置く必要がある。

 そして、その様にあらゆる場面を転々とすることでドン・ジュアンの性質の一つである移動性を表現することも出来る。最初の二幕で、ドン・ジュアンの快楽児としての側面が強調されている場面で「恋の喜びはすべて変化を楽しむことにつきる。」「いつでも勝利から勝利へと飛び移りたい。」というドン・ジュアンのセリフからも、主体的かつ機械的に、常に新しい恋を探そうと動いていることが分かる。また、女性の心の征服を目的としている点において、モリエールのドン・ジュアンは単なる肉体的な満足のみを求めるイタリア劇の主人公とは違い、むしろ多くの精神的な快楽の探究者という面が強調されている。

 モリエールの描くドン・ジュアンは、それまでの「ドン・ジュアン」劇に登場するドン・ジュアンよりも複雑な人物として描かれている。ドン・ジュアン伝説の起源はスペインにあり、17世紀前半にティルソ・デ・モリーナによって『セビーリャの色事師と石の招客』という題名で戯曲化された。これは作者であるティルソ・デ・モリーナが修道士であったことから、宗教的な色の濃い教訓劇で、主人公は単なる女たらしとして描かれ、無神論者的な性格は少しも帯びていない。その後「ドン・ジュアン」劇がイタリアに入り、チコリー二とジリベルトという二人のイタリア人作家がそれぞれ『石の招客』という題で戯曲を書いた。ここに登場するドン・ジュアンは快楽者という側面がさらに強調されたものになっている。

 このような、既存のドン・ジュアン劇とモリエールのものとは異なる部分が幾つか存在する。まず、宗教的偽善という側面を新たに加え、冒涜者としての色が濃くなっている。モリエールのドン・ジュアンは最後まで悔いを改めない無神論者として描かれ、その分色事師としての性格は弱まっている。そして、新たにドンヌ・エルヴィールが登場し、結婚の絆を冒涜し、さらに彼女は裏切られてもなおドン・ジュアンを愛し続ける点から、ドン・ジュアンの悪魔的な魅力も感じることが可能だ。さらに、先ほども述べたように変化と移動の性質を持っていて、自分の意思で行動する現代人のような部分も持ち合わせている。この様に、複雑な人物像にすることで、ドン・ジュアンを魅力的に、かっこよくさえ思えてしまうような人物に仕上げている。

 ここで、もう一つ注目したのは、この『ドン・ジュアン』は「必ずしも喜劇ということはできないのではないか」という点だ。スガナレルとのやり取りや、田舎でシャルロットやマチュリーヌを誘惑する場面、借金取りのディマンシュ氏の登場する場面などは喜劇的だが、終盤でドン・ルイやドンヌ・エルヴィールがドン・ジュアンを諭す場面などは非常に重々しくシリアスな空気が流れているように感じられる。さらに、ドン・ジュアンは最後に雷に打たれて死んでしまう為、決して喜劇的な結末とは言えない。このような悲喜劇的な性格を帯びているからこそ、モリエールの『ドン・ジュアン』はより面白く魅力的に感じるのだと推察する。

まとめ

 今回を通して、モリエールの『ドン・ジュアン』が今なお愛されてい理由が明らかとなった。『タルチュフ』が上演禁止になり、急いで作られた作品ではあるが、一人の人間が持っている様々な部分を見せることにより、物語に深みを持たせている工夫が垣間見えた。

【参考文献】

鈴木力衛訳「ドン・ジュアン」岩波文庫 

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