【レポート】東京の都市開発における「歴史的文脈」

【レポート】東京の都市開発における「歴史的文脈」

 明治期以降、東京という都市は目覚ましい発展を遂げ、現在では世界一の規模の都市圏を構成する。とりわけ高度経済成長ののち、その発展は主として大規模不動産開発が担ってきた。しかし、大規模な開発は時として反発を伴い、批判にさらされる。その批判が果たして適切であるか、という点において、本稿は東京の歴史を踏まえた上で検討する。まず1章でこれまでに起こった批判を参照し、2章では東京の都市成立の背景を探る。そして3章を結論とする。

「歴史的文脈」を無視する開発への批判

 本章では、大規模都市開発への批判を代表する例として2名の言説を取り上げたい。

 若林幹夫は、論考「余白化する都市空間」において、恵比寿ガーデンプレイスやお台場=臨海副都心、六本木ヒルズなどの開発は「再開発される土地の固有の歴史的文脈や空間的文脈はさほど考慮されることなく、(中略)その結果、再開発された地区とその周囲の地域との間には、しばしばハッキリとした切断線が引かれていった」[1]と指摘している。周囲と断絶された街にとっては、周囲は「余白」である。「そこでは東京という大都市は、地理的な広がりや歴史的な深みをもつ空間というよりも、(中略)こうした『街』や『都市』が島のように浮かぶ、それ自体は不定型な“海”のようなものなのだ」。このように若林は、現状を冷静に分析し、その場の歴史的・空間的文脈を引き継いでいない開発について批判的である。

 また、2013(平成25)年に新国立競技場について巻き起こった大きな論争でも「歴史的文脈」という用語が登場した。ここで言及するのは建築家の槇文彦が『JIA MAGAZINE』誌に発表した論考「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」である。槇は、プロポーザルコンペで最優秀となったザハ・ハディドの案について「その美醜、好悪を超えてスケールの巨大さ」[2]を第一印象として抱いたという。自らが国立競技場そばの東京体育館を設計した際の経験を踏まえつつ、神宮外苑の歴史を説明し、日本の将来的な予測などにも触れながらザハの案、ひいてはコンペの条件そのものを無謀として批判する。題にある「歴史的文脈」とは、明治神宮の建設から、神宮外苑一帯の風致地区への指定までの経緯を指している。「この地域が東京の風致地区第一号に指定されたのは、その背後に明治神宮との関連性を重視した姿勢の表れであり、今日この地域が単なるスポーツ公園と考えられたのではなかった証左でもある」2。神宮外苑一帯の由緒について、本稿では3章で説明する。

東京5地区史(丸の内、神宮外苑、六本木、大泉学園・田園調布)

 本章では私が選択した東京の5地区(丸の内、神宮外苑、六本木、大泉学園・田園調布)について、それぞれの成立の背景、そして現在に至るまでの地区の特色の変遷について記述する。

丸の内

 1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社は海運部門を日本郵船会社として分離し、次なる経営の柱として不動産投資に注力しはじめていた。1889(明治22)年、丸の内の陸軍兵舎用地が市区改正によって払い下げられる予定であったが、150万円という政府の売却希望額に各社が二の足を踏んだ。しかし皇居の正面という立地上の理由からも、信頼できる開発業者による秩序立つ街の整備は必須である。そこで政府は三菱社に、政府の売却希望額での購入を持ちかけた。当時の社長、岩崎彌之助は、購入のための資金一時調達を躊躇したが、最終的に丸の内8万4,000坪あまりを神田三崎町の練兵場跡2万2,000坪あまりとともに128万円(相場の2,3倍)で購入した。その決断は、当時英国に外遊中であった三菱幹部、荘田平五郎の「丸の内、買い取らるべし」[3]という電報の後押しによるものであった。しかし、1884(明治17)年に立案された市区改正計画から、件の払い下げ予定の土地に接して中央停車場(現・東京駅)の開設が構想されていたという点も岩崎は重視していたのであろうと推測される。

 1894(明治27)年以降、三菱は英国人の建築家コンドルに依頼し、洋式で赤レンガ造の貸事務所を次々と建設した。何もない土地が、こうして「一大洋風ビジネス街にうまれかわった」[4]のである。その流れを受け、丸の内は現在も日本を代表するビジネス街として知られる。三菱財閥系の企業が多く本社を構え、丸の内ビルディング、新丸の内ビルディング、丸の内パークビルディング、大手町ビルなどのビルが立ち並ぶ。また、老朽化したビルの再開発も活発に行われ、街の求心力は衰える気配がない。

神宮外苑

 1912(明治45)年に明治天皇が薨去し、東京市長の阪谷芳郎(当時)に代表される東京の名士らは天皇奉祝のための神宮を東京に創建する運動を行った。これにより翌年、帝国議会貴族院、そして衆議院で明治神宮の建設に関する建議の議決があり、代々木御料地を神宮内苑、旧青山練兵場を神宮外苑に整備することが決定した。

 神宮外苑は「明治天皇の偉績を顕彰し、後世子孫に永く聖徳を感銘させるため」[5]に造成された。聖徳記念絵画館、明治記念館、そしてスポーツが「心身の鍛錬を通じて明治天皇の業績を偲ぶ活動である」5とされたため、運動場も整備されることとなった。1915(大正4)年、内務省の外局として明治神宮造営局が設置され、局内の外苑課が外苑の造営を担当した。外苑は国民の寄付金をもとに明治神宮奉賛会が建造し、完成後は全施設が神宮に奉献された。1926(大正15)年には、外苑は内苑とともに全国で初めて風致地区の指定を受けた。

 第二次世界大戦後、外苑の各競技場は進駐軍により接収され、この際に中央広場は球技場へと用途が変更された。接収解除後、球技場は野球場へと転用された。また1956(昭和31)年には東京オリンピックのメインスタジアム(国立霞ヶ丘競技場)建設のため、既存の陸上競技場が周囲の植栽もろとも消滅した。外苑造営当初、オープンスペースとしての役割を果たしていた広場や周辺の植栽は、その後もさらなる運動施設が建造されたことにより多くが失われた。

 それから約60年後、再び開催されることとなった東京オリンピックのメインスタジアム(新国立競技場)建設のため、国立霞ヶ丘競技場は解体された。1章で触れた通り、新国立競技場建設にあたっての設計コンペでは建築家ザハ・ハディドの案が最優秀とされたが、その高額な建設費などが世論の注目を集め、結果として最優秀案は撤回された。その後、建築家伊東豊雄、隈研吾をそれぞれ中心としたグループによるコンペが改めて開催され、僅差ながらも隈研吾らのグループの案が採用されることとなった。2017(平成29)年1月現在、翌々年の完成を目指して建設が進んでいる。

六本木

 武蔵野台地の外辺部という地形上の理由などにより、六本木、麻布、白金の一帯は現在も寺院や墓地が多く分布している。原初の六本木は「寺の街」である、と認識されていた。また、界隈には長門府中藩毛利家の上屋敷、米沢藩上杉家の中屋敷などの武家屋敷が立ち並んでおり、明治期以降、それらの屋敷の土地は軍隊関連の施設へと転用されることとなる。その契機となったのは、1878(明治11)年の竹橋事件である。麻布歩兵三連隊、歩兵一連隊、麻布連隊区司令部、第一師団司令部、陸軍大学校が立地した六本木界隈は「軍隊の街」となり、軍に関連した商品を並べる店舗も多く見られるようになった。そして第2次世界大戦後には、旧日本軍の施設が米軍に接収されたことにより、六本木は「米軍の街」へと変貌を遂げる。赤坂プレスセンター(ハーディー・バラックス)や米軍関係者のための住宅の周辺には、米兵を相手にするクラブ、バー、レストランなどが集積をはじめ、パンパンやオンリーと呼称する娼婦(パンパンは不特定多数の米兵と関係を持ち、オンリーは特定の上級将校らと愛人契約を交わしていた)も街に出入りするようになった。1950年代には六本木族(六本木野獣会)という若者らも出現し、六本木は「夜の街」としての顔を見せはじめる。

 そして21世紀に突入すると、六本木は「アートの街」という側面を持った。2003(平成15)年の森美術館を皮切りに、2007(平成19)年の国立新美術館、同年のサントリー美術館(千代田区丸の内より移転)といった大型の美術館が次々と開館した。この3美術館は六本木アート・トライアングルを構成し、その周辺には小山登美夫ギャラリーやタカ・イシイギャラリー東京、オオタファインアーツ等、無数のギャラリーが存在する。そのひとつ、シュウゴアーツのギャラリスト佐谷周吾は六本木について「(森美術館開館以来、)東京のアートシーンの大変貌の主要な舞台であり続けて」[6]きたと語る。2009(平成21)年よりアートイベント「六本木アートナイト」も開催され、毎回のべ約70〜80万人が来場している。

大泉学園・田園調布

 大正期以降、東京近郊で「学園都市」または「田園都市」と称する都市の開発が盛んになった。そのひとつが、西武グループ創業者の堤康次郎が経営する箱根土地(のちの国土計画、コクド)によって開発された大泉学園である。

 1923(大正13)年、同社は北豊島郡大泉村に広がる雑木林50万坪の区画整理に着手した。山林は反あたり500円、桑の木は1本50銭で買収する、という話に難色を示す農民も多く存在したが、彼らに対し大地主が代地の提供などを行ったため買上げは成功した。区画整理の結果、幅員にゆとりを持つ道路が碁盤目状に整備され、それぞれの宅地には上下水道と電気が完備された。宅地のほか、運動場や公園などといった施設も整備されたが、とりわけ学校の誘致が積極的に行われた。しかし、武蔵野電鉄(現・西武池袋線)東大泉停車場を大泉学園駅に改称し、東京商科大学(現・一橋大学)の誘致を図ったものの失敗に終わった。

 田園都市開発の濫觴は、田園都市という社名を持つ株式会社(以下、田園都市株式会社)が1918(大正7)年、渋沢栄一を中心として設立されたことである。田園都市株式会社の理念は「紅塵萬丈なる帝都の巷に棲息して生計上衞生上風紀上の各方面より壓迫を蒙りつつある中流階級の人士を空氣淸澄なる郊外の域に移して以て健康を保全し、且つ諸般の設備を整へて生活上の便利を得せしめんとする」[7]ことにあった。レッチワースなどの欧米の都市を参考とし、田園都市株式会社は荏原郡玉川村や調布村などにおいて高価格帯の宅地を分譲した。これが現在の田園調布一帯である。現在も、それらの宅地は高級住宅街として名を馳せている。

まとめ

2章で取り上げた地区はそれぞれ異なった成立・発展の過程を持つ。丸の内は土地の大幅な用途変更(軍用地→ビジネス街)を明治期に経験し、現在に至っている。大泉学園・田園調布も用途変更は1回のみ行われた(田畑・山林→宅地など)が、変更前の用途が丸の内とは大きく異なる。神宮外苑は、外苑造営時に用途を変更した(軍用地→庭園)以降も、外苑という大枠は保たれながらも諸要因によって造営当初のランドスケープと現在の姿との間には様々な断絶が生じている。そして六本木は、その時代ごとに目まぐるしく発展の方向性を転換した。過程こそ異なるものの、これらはいずれも「歴史的・空間的文脈」を尊重した開発による発展ではないという点において共通している。大規模開発に対する「歴史的文脈を継承すべき」という批判において、その継承すべきとされる歴史的文脈そのものは、既に多くの場合断絶されてしまっているのである。東京という都市は、歴史的・空間的な断絶そのものを特質としている、とも考えられるであろう。したがって、1章で取り上げた批判はどちらも筋違いであるといえる。若林の論考における誤謬は上述の通りであるが、槇の論考ではそれに加え、旧国立競技場が神宮外苑の歴史的・空間的文脈を破壊して建設されたことに触れられていない点が不公正である。

【参考文献】

吉見俊哉「迷路と鳥瞰——デジタルな都市の想像力」『東京スタディーズ』紀伊國屋書店(2005)

五十嵐敬喜・小川明雄『[都市再生]を問う―建築無制限時代の到来—』岩波新書(2003)

東洋経済ONLINE「いま、六本木は『住む』街へ マジェス六本木」http://toyokeizai.net/sp/160426majesroppongi/sp/index.html (2016/12/31参照)

ハフィントン・ポスト「THE BLOG 六本木アートナイト2015」http://m.huffpost.com/jp/entry/7884330 (2016/12/31参照)

港区「武家屋敷・お屋敷跡」https://www.city.minato.tokyo.jp/azabuchikusei/mirai/documents/bukeyashiki.pdf (2016/12/31参照)


[1] 若林幹夫「余白化する都市空間——お台場、あるいは『力なさ』の勝利」『東京スタディーズ』紀伊國屋書店(2005)16-17頁

[2] 槇文彦「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」『JIA MAGAZINE』2013年8月号、10頁

[3] 三菱グループ「三菱人物伝 vol.08 荘田平五郎(下)」https://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man08.html(2016/12/31参照)

[4] 石塚裕道・成田龍一『東京都の百年』山川出版社(1986)122頁

[5] 越沢明『東京都市計画物語』日本経済評論社(1991)56頁

[6] bitecho「六本木に新たなアートの発信地!小山登美夫ギャラリーなどが移転」http://bitecho.me/2016/09/15_1151.html(2016/12/31参照)

[7] 杉本寛一編『東京横濱電鐵沿革史』東京急行電鐵(1943)7頁

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