【レポート】分離派建築会

【レポート】分離派建築会

分離派建築会の概要

 分離派建築会は、1920年2月1日、東京帝国大学工科大学建築学科(当時)の学生によって結成された。結成時のメンバーは石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人である(後に大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わった)。彼らの描いたスケッチ等によって習作展を開いたことが、会の活動の第一歩であるとされる。

 ここに、分離派建築会の作品集3冊(『分離派建築会 宣言と作品』『分離派建築会の作品 第二刊』『分離派建築会の作品 第三刊』)の冒頭に掲載された『分離派建築会の宣言』を引用する。この宣言文の起草者は堀口であり、堀口は分離派の中心的存在であった。

 我々は起つ。

過去建築圏より分離し、総の建築をして眞に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。

 我々は起つ。

過去建築圏内に眠つて居る総のものを目覚さんために、溺れつゝある総のものを救はんがために。

 我々は起つ。

我々の此理想の実現のためには我々の総のものを愉悦の中に献げ、倒るゝまで、死にまでを期して。

 我々一同、右を世界に向つて宣言する。

 分離派建築会

 分離派建築会という名称の由来はオーストリアのセセッション(分離派)であるとされる(藤岡、p.11)が、セセッションと分離派建築会の指向は必ずしも一致するものではない。上記の宣言文第1条の『分離』という言葉がそのまま会の名称に結びついた、というのが実際のところであり、その命名についてはメンバーの山田が後に苦言を呈している(『分離派建築会の作品 第二刊』p.25)。

 結成の背景には、当時、建築学科が佐野利器と内田祥三という2人の構造学者によって統率されつつあったことが挙げられる。建築における『構造』と『意匠(デザイン)』は対立するものであるという考え方が存在していたようで、建築学科は2年次から『構造』と『意匠』の2つに分かれることになっていた。『構造』に重きを置く風潮が学科内に生まれつつあったことに、『意匠』の学生には不満を抱いていた。6人のメンバーのなかでは森田と矢田が『構造』の学生であり、他の4人は『意匠』の所属である。

 大学卒業後の1920年7月18日から22日に、彼らは第1回分離派建築展を開催した。その後、分離派建築展は1928年にかけて7回まで続き、それに加えて関西展なども行われた。

 分離派建築会は、集団での建築展示を日本で初めて行い、社会に意思表示をした。分離派建築会に追随する形で、創宇社やメテオール建築会、ラトー建築会といった若手建築家のグループが結成されていった。

 会の活動は、1928年の第七回分離派建築点が最後であったと見られる。その前後に創設時の中心メンバーである石本が脱退し、これが会の瓦解に繋がった。

分離派の主張

 分離派に所属するメンバーは、何よりも建築の芸術性を重要視していた。

例えば、瀧澤は「建築には其他に、建築が其物自身固有の而して建築特有の、価値即ち建築は建築として論ぜられねばならぬ価値があるのである。それは言ふ迄もなく建築の芸術的価値である。」(『分離派建築会 宣言と作品』p.13)と述べている。

 それに加え、彼らは建築の模倣を批判する姿勢が芸術性の訴求と並立していた。ここでいう模倣とは、「過去の建築様式を適用して立面を整えるやり方」(藤岡、p.18)であり、この模倣批判は脱・歴史主義ともいえる。また、過去の建築様式だけではなく、欧米における建築の動向を模倣することに関しても彼らは批判した。彼らは『時代精神』というものが存在する、そして日本には日本特有の気候や建材を考慮した様式に則った建築がふさわしいと信じたため、そのような主張を展開したのであった。

 しかし、上述のように模倣を否定した彼らが分離派建築展で発表した作品の多くは、実際にはドイツ表現主義などの既存の建築様式に大きく影響を受けたものであったことは皮肉といえる。

 もうひとつ、「建築非芸術論者」「構造派」との対立は分離派の主張を紹介する上で欠かせない事象である。この件については、藤岡洋保が「主体—客体」二元論によって明快に説明している。「建築非芸術論者」とは野田俊彦、「構造派」は佐野利器らのことを指すとされるが、彼らは理想的な建築というものが主体である建築家ではなく客体である建築そのものにあると考えた。建築家が積極的に関与せずとも、理想的な建築は科学技術の適用や緻密な分析を突き詰めることによって誰でも造れる、というわけである。その一方で堀口に代表される分離派は、理想的な建築のためにはあくまでも主体である建築家が主導権を握らなければならないと主張した。功利性、合理性、経済性等は理想的な建築のための前提条件にすぎず、正解は複数存在し得る。それらの中から建築家が選択することで、初めて理想的な建築は生まれる、と堀口は確信していたのであった。野田と分離派は互いに批判を繰り広げ、「野田は分離派会員の大学卒業を妨害しようともしたらしい」(藤岡、p.26)。

【参考文献】

藤岡洋保『表現者・堀口捨己—総合芸術の探求—』中央公論美術出版(2009)

森仁史(監修)「叢書・近代日本のデザイン25 分離派建築会『分離派建築会 宣言と作品』 / 分離派建築会『分離派建築会の作品 第二刊』 / 分離派建築会・関西分離派建築会『分離派建築会の作品 第三刊』」ゆまに書房(2009) <1920、21、24年にそれぞれ発行されたものの再録>

※本文中の引用文、ならびに書籍名における旧字体漢字は全て常用漢字に改めた。

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