【レポート】大東亜戦争における日本のアジア政策

大東亜戦争における日本のアジア政策

 大東亜戦争と太平洋戦争

 「太平洋戦争」は、戦後GHQが日本政府に呼称を改めさせて誕生した単語である。日本がアジアの解放を目指して戦ったを日本国民に忘れさせるため、GHQが「大東亜戦争」という単語の使用を禁じたのである。「大東亜」という単語は、アジア全体を意味している。日本がこの戦争で、アジアの解放に一役買ったという事実を葬り、日本がアメリカだけと戦争した印象づけるために「太平洋」という言葉に変えさせた。事実、今でも教科書では、全て「太平洋戦争」と記述されている。また、日本がアジアに対して行った事は中国と朝鮮への侵略しか書かれていない。これもGHQの教育改革による影響で、日本はアメリカと戦争をし、アジアを侵略したと教えられている。

 日本のアジア地域のおける植民地政策

 では、日本はアジアに対してどのようなことをしたのだろうか。例えば、日本は1942年にインドネシアに進出した。元々インドネシアは300年以上もオランダ領であり、幾度となく独立戦争が繰り広げられていた。そこに日本軍が進出し、インドネシアをオランダから解放すると宣言、わずか9日でオランダ軍を撤退させている。その後、日本はインドネシアに1945年9月7日を目処に独立を約束した。独立に向けて日本軍は、柳川中尉などが中心になって官吏学校、医科学校、農家学校、水産学校などを創設し、終戦までに約十万人の卒業生を輩出した。オランダは、植民地時代に文盲政策を実施していたことに比べると、日本の教育は徹底されていたと言える。実際、オランダが300年以上の植民地時代に教育を施した人間はわずか数千人である。しかし、日本は1945年8月15日に無条件降伏を受け入れため、インドネシアは再びオランダ領になってしまう。現地にいた日本兵と民間人は、インドネシア独立の約束を果たせなかった事への償いとして約2,000人がインドネシア独立軍の義勇兵として戦闘に参加した。彼らの活躍もあり、インドネシアは1949年に独立を果たす。インドネシアの初代大統領スカルノは、日本への敬意を示し、独立宣言書の日付に西暦ではなく、日本の皇歴で記入している。戦後、日本を訪れたインドネシアのブン・トモ情報宣伝相は、このような言葉を日本人に残している。「そもそも大東亜戦争は、我々の戦争であり、我々がやらなくてはならなかった。そして、実は我々の力でやりたかった。それなのに日本だけに任せ、少ししか協力できず、誠に申し訳なかった。」

 また、日本は1941年のマレー半島上陸作戦において、マレーシアとシンガポールをイギリス軍から奪取することに成功する。その後、日本はインドネシア同様、様々な教育システムを構築し、シンガポールを含めたマレーシアを独立させることを約束する。実際に日本が創設した現地の学校などから、日本に留学したマレーシア人も多く存在する。そのうちの一人にマレーシア独立の父を呼ばれるラジャー・ノンティックという人物がいる。戦後、日本人がマレー人虐殺に対する現地調査に訪れた際に、彼は「日本人はマレー人を誰一人として殺していません。日本軍が殺したのは、敵であったイギリス軍や中国共産党系の抗日ゲリラだけです。そして日本の将兵も血を流しました。」と発言し、日本人が自国の歴史を正しく語り継ごうとせず、自虐史観に陥ってしまうことに大きな危機感を覚えたという。

 まとめ

上記以外でも、日本は多くのアジア地域を植民地にしていた。そして日本がアジア地域を植民地にした理由の一つが豊富な石油資源に目をつけたことは言うまでもない。アジアの人たちに対して、悪いことを一切しなかったかというとそれも嘘になる。しかし、日本の植民地化によるアジア地域の独立を助長したことも事実である。実際に戦後、多くのアジア地域が独立を果たしている事からも明らか。今一度、日本の歴史を多角的な目線で捉え直すべきではなかろうか。

【参考文献】

前野徹『凛の国』青春出版社(2004)

前野徹『歴史の真実』講談社+@文庫(2005)

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