【レポート】関東大震災と首都・東京の復興

【レポート】関東大震災と首都・東京の復興

はじめに

 本稿では、関東大震災と東京という都市の関係を探ることで近代日本都市の歴史的特質に迫る。1章は関東大震災を要略し、2章で震災後の復興計画について述べ、3章で総括を行う。

関東大震災の概要

 1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生した。東京では最大震度7が記録され、東京市内の48万300戸のうち1万5,142戸が全半壊した。とりわけ浅草区、深川区、本所区といった地盤の弱い下町が、強い揺れにより被害を受けた。しかし、この震災の死者の多くは地震そのものよりも地震に連動した火災によって絶命した。昼食の準備のために各家庭で火を使用する時間帯の地震発生に加え、地震当日の強風、水道管の破損、木造家屋の密集等が大火災を引き起こした。さらに、市民が避難時に持ち歩いた荷物に火の粉が移ることによっても火災は助長された。市内の76箇所で出火、やがて火流が火系へと発達して延焼を重ね、2日後の9月3日午前8時頃に鎮火した。市内30万戸あまりが焼失し、市街地の焼失率は市全体の44%を占めた。この震災の死者7万4,024人(9月11日までの統計)のうち、93.8%は火災によるものであった。

 上水道は鉄管の86本が損傷を受け、204箇所が破壊、4万387箇所が漏水した。橋梁は410本が焼失、道路は総面積の27%が毀損された。ごみや屎尿収集が機能せず、被災者は入浴もままならなかったため、赤痢、チフス等の感染病が蔓延した。このように、震災後の被災者の衛生状態は劣悪であった。

震災後の復興計画

 首都復興のための都市計画案は、専門家のみならず多くの市民からも発表された。衆議院議員や東京市助役、明治学院大学総理などを務めた田川大吉郎は『作らるべき東京』と題された書籍で、また建築家の中村順平は『東京の都市計画を如何にすべき乎』で復興計画を提案した。建築専門誌、『中央公論』『改造』といった総合誌にも計画案は逐次発表されたほか、東京市政調査会や土木学会など14団体から結成された帝都復興聯合協議会も精密な案を提議した。

 それらの民間による計画案に対し、内務大臣の後藤新平が友人で東京帝大農学部教授の本多静六に依頼し「二昼夜不眠不休」[1]で作成させた復興計画案は、行政側による案として知られる。それに先立ち、後藤は「〈1〉遷都すべからず〈2〉復興費に三十億円を要すべし〈3〉欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しき新都を造営せざるべからず〈4〉新都市計画実施の為め(原文ママ)には、地主に断固たる態度を取らざるべからず」[2]という基本方針を定めていた。アメリカから招聘した市政学者C.Beardの助力に加え、自身の満州における都市計画のキャリアも活用し、40億8,130万円(国家予算の約3倍)を経費として計上する復興計画案が完成した。計画案では国費を財源とし、罹災した全地域を買い上げることとなっていた。

 この大規模な計画案には、政府内で大きな批判が起こった。後藤が設立を目論んだ帝都復興省は帝都復興院として実現したものの、各省庁の反対により権限と規模を大幅に低減されたものとなり、1924年に廃止され復興局に格下げされた。また、罹災地域の買収も地主らの反発を受け実現しなかった。復興院の原案としての計画予算は7億297万円と当初案から大幅に縮小され、さらに帝都復興審議会(被災地復興に関する諮問機関)や政友会の抵抗を受けたことにより、5カ年4億6,844万円の予算で復興計画が成立した(1928年には約2億円増額され、7カ年6億4,905万円となった)。当初案では国費を財源としていたが、主要でない部分の執行は東京市が政府の助成を受けて担当することとなり、市の財政難の要因となった。

 復興事業は街路の整備と土地区画整理を中心として進められた。震災以前の狭隘道路は幹線道路52本、補助道路121本、多数の区画整理道路に改良され、それらの道路の総延長は750kmに及ぶ。この改良により日本において舗装技術が確立し、街路樹などの植栽、歩車分離道路なども定着した。道路面積は市総面積の18%(整備前は11%)となった。幹線第1号の昭和通り、第2号の大正通り(現・靖国通り)は特に震災復興の象徴的存在として市民に親しまれた。

 震災による焼失区域の9割にあたる10区4町942万2,952坪は土地区画整理事業の対象とされた。区画整理はドイツにおいて郊外の開発手法として考案されたものであり、既存の市街地への実施は世界で初となる試みであった。事業は1924年に開始した。建築物の移動にあたり、住民は居住地の変更(換地)を余儀なくされる。とりわけ中小商工業者は立地の影響を受けやすく、事業の延期などをたびたび声高に訴えた。また、それまで借家を賃借していた人々も、借家の移転によって住まいを失い、あるいは家賃の上昇の影響を被ることとなった。そのような不利益の受難へのカウンターとして、弁護士を中心とする団体(借家人同盟)の結成などが見られたものの、結局は戒告や代執行により半強制的に事業は進行した。

 以上の事業が完了した1930年、帝都復興祭が執り行われ、一連の取り組みに区切りがつけられることとなった。

まとめ

 震災後、東京は第二次世界大戦によって再び焦土と化したが、戦後採用された復興計画は大幅に縮小され、とりわけ街路に関して不十分なかたちで実施された。そのため震災後に計画された昭和通りや大正通り(靖国通り)などの街路は現在も東京の重要な交通網の一部であり、それらは高度経済成長や、その後の東京の発展を支えた。

 上述の通り、近代日本都市のひとつである東京では、震災の被害によって実現した大規模な都市計画が戦後の都市発展の基盤となった。これは都市の歴史的特質といえる。

【参考文献】

石塚裕道・成田龍一『東京都の百年』山川出版社(1986)

講談社出版研究所『実写・実録 関東大震災』講談社(1988)

越沢明『東京都市計画物語』日本経済評論社(1991)

内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第3編】』第1部 復興計画の策定 第1章 帝都復興の展開http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923-kantoDAISHINSAI_3/pdf/5_v1_chap1.pdf(2017/01/25 参照)

独立行政法人 防災科学技術研究所 自然災害情報室『防災基礎講座 災害事例編 災害はどこでどのように起きているか 17. 地震による被害を著しく拡大し壊滅的にする市街地延焼火災』http://dil.bosai.go.jp/workshop/02kouza_jirei/s17fire/jishinkasai.htm(2016/1/25参照)


[1] 『読売新聞』2013年3月2日朝刊「[昭和時代]戦前・戦中期(3)首都一新 変わる景観(連載)」

[2] 鶴見祐輔『〈決定版〉正伝 後藤新平⑧《政治の倫理化》時代』藤原書店(2006) 182頁

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です