【レポート】ミッドウェー海戦における日本海軍の失敗と教訓

【レポート】ミッドウェー海戦における失敗と教訓

 太平洋戦争初期の1942年6月5日、ミッドウェー島付近で始まった日米機動部隊による航空決戦は、日本側は空母4隻(『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』)の沈没、航空機300機以上の喪失という損害を被った一方、米国側は空母1隻(『ヨークタウン』)と航空機147機の喪失に留まり、太平洋戦争における日本海軍の劣勢を決定づけた。しかしこの戦いは、本来は日本側が優勢であり、上述の打撃を受けるはずではなかった。それではなぜ、日本は敗れてしまったのか。その理由と今日に活かすべき教訓を本稿で述べていきたい。

 ミッドウェー海戦に至る経緯

 元来、日本海軍の仮想敵国は米国であり、日本海軍は米海軍を日本近海に呼び寄せて撃滅する戦法の研究を30年以上行ってきた。しかし聯合艦隊司令長官に就任した山本五十六は、積極的に米海軍に打撃を与え「米国海軍及び米国民をして救うべからざる程度にその士気を沮喪せしめ」るほかないと考えており、1941年12月8日、ハワイ作戦及びマレー作戦を実行することとなった。その後、真珠湾攻撃では破壊できなかった空母を撃滅するための次なる作戦として浮上したのがミッドウェー作戦である。

 ミッドウェー作戦の概要

 日本海軍機動部隊はミッドウェー島を奇襲し、一時的に占領することで米機動部隊を誘い出し一挙に撃滅することを目的としていた。そのため、作戦初段階のミッドウェー島上陸日は、月齢や天候状況を踏まえた上で6月7日と設定した。まず上陸の前段階として、南雲忠一中将率いる第一機動部隊の空母4隻と第一、第二航空戦隊は6月5日にミッドウェー島北西250海里付近に進出する。その後直ちにミッドウェー島への攻撃を開始し、基地、航空機等を使用不能にする。6月6日、前日の攻撃を続行し、敵の動向に変化がない場合は上陸作戦を実行する。また機動部隊は同島の北方400海里付近に進出し、敵機動部隊の反撃に備える。ミッドウェー島の滑走路の整備が完了し次第、空母に搭載している戦闘機を同島に輸送する。以降1週間までは、同島付近で米海軍機動部隊の反撃を待ち伏せるかたちで戦闘を行う。最後は作戦終了の命令に伴い同島を離脱、南雲第一機動部隊はトラック島に帰還する、というのが作戦の概要であった。

 ミッドウェー海戦の戦闘経緯

(以降、時間表記は1時10分=0110という形式をとる)

 日本側は6月5日の0130にミッドウェー島北西210海里付近に到達し、その後上空警戒機、同島攻撃機を発進させた。これに伴い偵察機も発進させた。

 一方で米国側は、かねてより日本海軍の使用するD暗号の解読に成功し、ミッドウェー作戦の概要を把握していた。そのため、6月5日時点でフレッチャー司令官率いる空母3隻と主力艦はすでに同島付近へ進出していた。同島の飛行場から発進した偵察機は2020頃に日本の機動部隊を発見し、2040にはミッドウェー島に向けて飛行中の攻撃隊を発見している。

 日本軍によるミッドウェー島空襲は0330頃から開始された。この空襲では目立った戦果を上げることはできず、米軍による散発的な反撃を誘発することとなる。米軍による攻撃は約1時間半継続されたが、ほぼ全てが日本軍に撃墜され、1発も命中弾を与えることなく大損害を被っている。

 米機動部隊の発見と日本軍機動部隊の対応

 0415頃になっても敵艦隊の発見報告がなかったため、予定通りミッドウェー島の第2次空襲を行う手筈を整えていた。しかし0428に『利根』4号機から「敵ラシキモノ発見」の報告が入る。南雲司令官は、第2次攻撃のための対陸用爆弾に兵装転換を命令したが、直ちに取り止め再び雷装に転換を命令した。これにより、空母艦内は大混乱となる。0520になって敵空母の存在が明らかになった。また機動部隊同士の距離は210海里と判断され、これは攻撃範囲内であった。ここで南雲司令官は大きな決断を迫られる。0450頃からミッドウェー攻撃部隊が帰投を開始していた。つまり、敵機動部隊への攻撃を優先し、まず攻撃隊を出撃させるか、あるいはミッドウェー攻撃隊の収容を先に行うか、どちらかを選択する必要があったのである。第二航空戦隊司令官山口多聞少将は「直チニ攻撃隊ヲ発進ノ要アリト認ム」と進言したが、南雲中将は、敵との距離からしてまだ攻撃には余裕があるとの見通しと、ミッドウェー攻撃隊の燃料や被弾の状況を考慮し、まず収容を行うと決定した。これには、今まで苦楽を共にしてきた戦友に対しての情が戦略的合理性に勝ってしまったのではないか、と当時の航空参謀の源田実は述べている。

 米機動部隊の来襲

 0618頃、空母『ホーネット』『エンタープライズ』『ヨークタウン』の順に発信した雷撃隊が南雲第一機動部隊を発見、攻撃を開始した。しかし日本側の迅速な対空戦闘により雷撃機の半数以上が撃墜され、日本側の損害はなかった。続いて0723頃『エンタープライズ』から発信した爆撃機隊が偶然南雲第一機動部隊を発見、更に『ヨークタウン』の爆撃機隊も同隊を発見し、急降下爆撃を開始する。日本側は雷撃の為の回避行動と低空での上空掩護に専念していたため、これらの急降下爆撃は全くの不意打ちであった。この攻撃で、空母『加賀』『赤城』『蒼龍』にそれぞれ4発、2発、3発の爆弾が着弾する。この際、不運にも兵装転換を終え、魚雷を装着し燃料を補充した戦闘機およびつけ外した対陸用爆弾が艦内に散在していた。このため艦内では大爆発が発生し、直ちに消火不能となった。ここに空母3隻の喪失は決定づけられたのである。

 空母『飛龍』による反撃

 空母3隻から離れて航行していたために攻撃を受けなかった『飛龍』乗艦の山口多聞少将は「我、今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と信号を送り、0900頃に作戦参加機わずか16機で「ヨークタウン」に攻撃を試みた。結果的に爆弾3発と魚雷2発を命中させ沈没させる事に成功した。しかし日本側は、米機動部隊の空母3隻のうち2隻を沈没させたと誤って認識してしまった。その後『ホーネット』『エンタープライズ』から発信した艦爆隊が1345頃『飛龍』を発見し、攻撃を開始した。『飛龍』側は十分な上空警戒をしていたが、艦爆隊が太陽光を背に攻撃してきたために捕捉できず、1403に爆弾4発が命中した。これにより甲板の使用は不可能となり、次いで他の3隻と同様に消火不能に陥った。ここに『飛龍』の航行不能は確実となり、加来止男艦長と山口多聞少将は責任を取り、同艦と運命を共にした。その後、聯合艦隊は作戦の中止を命令し、ミッドウェー作戦は終了した。

 ミッドウェー海戦から学ぶ今日の教訓

 当時世界最強と謳われた日本海軍における機動部隊は、優勢であったにも拘らず、なぜこのような一方的な敗北を味わってしまったのであろうか。そこに存在する以下の理由は、現在においても十分に活かすことのできる価値ある教訓でもある。

  1. 作戦目的の曖昧さ そもそもの目的がミッドウェー島攻撃か、ミッドウェー近海における敵機動部隊の殲滅か、という点が聯合艦隊および軍令部内で共有されていなかった。実際に、聯合艦隊司令長官山本五十六と第一機動部隊司令官南雲忠一との間ですらも、意見の共有がほとんど為されていなかった。
  2. 敵空母の存在への警戒心の薄さ 索敵機からの敵艦隊発見の報告を受けても(0428に利根4号機が発見)、0520まで南雲機動部隊は攻撃を決意できなかった。0520に「空母ラシキモノ一隻含ム」との報告を受けた時点での日米機動部隊の距離は210海里であり、攻撃範囲内であったことからも、本来であれば第二次攻撃隊の兵装は予定通り魚雷のままでいることが望ましかった。このような失態の要因は、南雲司令官をはじめ、ほとんどの指導者が「アメリカ艦隊は居るはずがない」という先入観から抜け出せず、報告を受けてもなお信じようとしなかった点である。人間の思い込みが事実を超越してしまう好例ともいえる。
  3. 陣形の拙さ 聯合艦隊の主力艦が南雲機動部隊を援護できる陣形を組むべきであった。山本五十六司令官を乗せた戦艦大和率いる主力艦隊は、第一機動部隊のはるか後方で待機していた。一応の名目は機動部隊の援護を行うための後方待機といったかたちであったが、両者の距離を考えると援護は到底不可能であり、尚且つ無線封止も行われていたため、聯合艦隊との連絡も取れず、機動部隊のみが完全に孤立してしまった。
  4. 対空レーダーへの関心の低さ 空母4隻はいずれも対空レーダーを搭載しておらず、敵機は目視で確認するより方法はなかった。実際、空母『飛龍』乗艦の山口多聞少将は、被弾の原因を「レーダー不足ニヨル過失」と判断している。
  5. 情報の軽視 米国側は、日本海軍の使用しているD暗号の解読を続けた結果、暗号記号’AF’を事前にミッドウェー島であると解読した。そのため、日本軍の行動は事前に把握されており、聯合艦隊の横須賀港出発時より、米海軍の潜水艦が行動を逐一報告していた。しかし日本軍に至っては、アメリカ軍の情報に関して積極的に収集をせず、部分的な解読に留まっていた。また海軍内の情報班と聯合艦隊との相互のやり取りも行われていなかった。後日談ではあるが、情報班は米海軍の潜水艦の暗号発信を探知できていたため、聯合艦隊との作戦内容の共有ができていればミッドウェー島付近の到着以前に米軍による監視に気付き、先手を打てたはずである。
  6. ダメージコントロールの脆弱さ 日本の空母は、消火設備よりも、より多くの戦闘機を搭載することを重視して設定されていたため、英米の空母に比べて防御面で劣っていた。また空母『蒼龍』では、被弾した段階で消火装置が故障し、既に火を消し止める術すらなかったのではないか、と報告されている。
  7. 不可思議な人事考課 日本海軍は陸軍と同様に年功序列、学生時代の成績(ハンモックナンバー)を重視した人事考課を採用していたため、戦場での能力や経験に応じた的確な人員配置を行えなかった。例えば、第一機動部隊司令官南雲忠一は航空機に関して全くの素人であり、部下の助言にただ従うだけで「そうかそうか司令官」という陰口すら叩かれていた。一方で、第二航空戦隊司令官の山口多聞は航空機を熟知した司令官であり、現場での指導力も含めると、彼が第一機動部隊の司令官の座に就くべき人間であったといえる。また名門プリンストン大学に留学し、駐米武官を務めたことからも、知米派として対米戦略のスペシャリストとしても重宝すべき人材であった。しかし南雲は海軍兵学校36期、山口は40期であり、この4年の差が決定的な人事ミスを引き起こしたと言っても過言ではない。また作戦失敗後、責任者である山本五十六は聯合艦隊司令長官の座に留任、南雲と草鹿参謀長も再編された第三航空戦隊に配属となった。このため、空母4隻喪失という致命的な過失にも拘らず、誰一人として責任を取ることなく、むしろ責任者が責任あるポジションに就き続けるという異様な人事が採用された。結局、責任を取ったのは、自らの意思で空母『飛龍』と運命を共にした山口と加来の2名のみであった。

以上の通り、ミッドウェー海戦の敗戦の理由は7点挙げられる。その中で最も現代に生きる我々が注意するべきものは、主観による思い込みである。この戦いにおいても、思い込みが次なる一手を阻んだばかりでなく、客観的な状況判断すら歪めてしまう結果になった。また人事考課に関しても、現代の日本と共通する大きな問題を提示しているといえるだろう。南雲と山口の例からも、年功序列ではなく、能力や適性による人事が必要であることは、この戦いの敗北が物語っている。

【参考文献】

野中郁次郎・杉之尾宜生・戸部良一寺本義也鎌田伸一杉之尾孝生村井友秀 「失敗の本質」中央公論新社(1991)

野中郁次郎・杉之尾宜生・戸部良一寺本義也鎌田伸一杉之尾孝生村井友秀 「失敗の本質 戦場のリーダーシップ編」ダイヤモンド社(2012)

加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」新潮文庫(2009)

村上薫「驕りの失敗」サイマル出版社 (1992)

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